強運・開運神社

「強運・開運神社(その1)」神社名 INDEX

【伊勢国】

 1)皇大神宮(こうたいじんぐう)

 2)椿大神社(つばきおおかみやしろ)

 

【尾張国】

 1)眞清田神社(ますみだじんじゃ)

 

【越後国】

 1)彌彦神社(いやひこじんじゃ)

 

【加賀国】

 1)白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ) NEW

 

【津軽国】

 1)岩木山神社(いわきやまじんじゃ)

 

【常陸国】

 1)鹿島神宮(かしまじんぐう)

 2)大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)

 3)吉田神社(よしだじんじゃ)

 4)息栖神社(いきすじんじゃ)

 5)御岩神社(おいわじんじゃ)


【武蔵国】

 1)氷川大社(ひかわたいしゃ)

 2)赤坂日枝神社  おススメ

 3)王子神社(おうじじんじゃ) NEW


【相模国】

 1)箱根神社(はこねじんじゃ)

 2)寒川神社(さむかわじんじゃ)

 3)伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)


【出雲国】

 1)須佐神社(すさじんじゃ)

 2)日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)

 3)出雲大社(いずもたいしゃ)

 4)長浜神社(ながはまじんじゃ) NEW

 

【上野国】

 1)鷺宮咲前神社(さぎのみやさきさきじんじゃ) おススメ

 2)榛名神社(はるなじんじゃ) NEW

 

【下総国】

 1)香取神宮(かとりじんぐう) おススメ

 2)千葉神社  NEW

 

【信濃国】

 1)御嶽神社里宮(おんたけじんじゃさとみや)

 2)諏訪大社上社本宮(すわたいしゃかみしゃほんみや) NEW

 

【紀伊国】

 1)熊野本宮大社 (くまのほんぐうたいしゃ)

 )熊野速玉大社 (くまのはやたまたいしゃ) NEW

 

【安芸国】

 1)厳島神社(いつくしまじんじゃ)

 

【筑前国】

 1)筥崎宮(はこざきぐう)

   2)宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃへつぐう) NEW

 

【筑後国】

 1)高良大社(こうらたいしゃ)NEW

 

豊前国

 1)宇佐神宮(うさじんぐう) NEW

 

※おススメは時期的なものが多いので消えたり付いたりします(笑)。

 

伊勢国

 

〇皇大神宮(こうたいじんぐう)

 

正式名称は「神宮(じんぐう)」である。他の「〇〇神宮」とは違い、単に神宮といえば、内宮(ないくう)外宮(げくう)の二宮を指している。

 

もろもろの理由で、現在の地に鎮座あうるまで、各地を遷座し、現在の伊勢神宮(内宮)に鎮座したのは垂仁天皇25年とされる。あまり本格的に神宮の説明をしていくと膨大になり過ぎるし、本格的な問題から、SF的(トンデモ本的)な問題まで幅広く存在し、神社神道の根幹的な問題まであるので、できる限り適度な範囲に収めておきたい。

 

神社本庁の本宗であり、神階が授与されたことのない神社(授与する側)であり、伊勢神宮石清水八幡宮(かつては宇佐八幡宮)は皇室の宗廟とされているのだ。

 

ちなみに伊勢国一の宮は、椿大神社(つばきおおかみやしろ)と都波岐(つばき)神社されるが、本来は二の宮とされる多度(たど)大社が、事実上一の宮であったとされる。

 

《御祭神》

・天照坐皇大御神 (天照大御神:アマテラシマススメオオミカミ)

 

《所在地》

・三重県伊勢市宇治館町1

 

《備 考》

武家が勃興し、徳川幕府が瓦解するまでの間、必ずしも最上位として扱われていたわけではなく、単なる「皇室の氏神」であったため、苦しい時期もあった。在位中の天皇として明治天皇が初めて参拝した明治期から、第二次大戦の敗戦まで、すべての神社の上に位置するとして社格付与の対象外であった。大戦以後は、宗教法人神社本庁が発足し、全国神社の本宗となった。

 

昨年(2015年)、原則として20年ごとに行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)が行われた。

 

《ホームぺ―ジ》

http://www.isejingu.or.jp/index.html

 

 

椿大神社(つばきおおかみやしろ)

 

いや~、やっと出たという感じ。数ある猿田彦系神社の中でもトップクラスであろう。

 

明治期に内務省神社局の調査によって、いちおう猿田彦大本宮とされている。いちおうというのは、全国にある猿田彦系の神社で、ここの神社と関連のある神社が少ないからである(笑)。

 

他の伊勢国にある、猿田彦神社や都波岐神社も、猿田彦大神の子孫が神職とされ、どこも由緒ある神社で有り、どこが本流とは一概には言えない。なんせ神代の話ですから。

 

社伝では、倭姫命に下った神託で「道別大神の社」を大神の墳墓付近に社殿を造営したのを創始とするそうな(垂仁天皇27年)。そして、都波岐神社とともに伊勢国一の宮とされている。そう、伊勢神宮は一の宮ではないのだ。

 

この、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央にある「入道ヶ嶽」「椿ヶ嶽を天然の社(現在は奥宮)としており、倭姫命の神託で、太古より修験道的に祭祀されていた大神を御陵の「御船磐座」付近に来て頂き、こりゃまた所縁のある瓊々杵尊(ニニギノミコト)と栲幡千々姫命(タクハタチチヒメノミコト)を相殿の社殿を造営・奉斎した神社である(日本最古とも)。

 

三重県では、伊勢神宮二見興玉神社(これも猿田彦大神!)についで参拝者数が多い。修験道の開祖とされる、大神の末裔・行満大明神(役行者を導いたとも)が中世の修験神道の中心となった(現宮司も行満大明神の末裔)。

 

ご利益は、方災除け・厄除け・家内安全・無病息災・交通安全は得意中の得意。進学・就職などの開運への御導き、恋愛成就・旅行安全などオールマイティでなんでも来いの神社ではあるが、どんな人でも受け入れるという感じではない。

 

厳しいというわけではないが、それなりの気持ちを持って(修験道系ですから!)参拝すれば、こりゃ凄いというお力をお貸し頂けると思う。境内には天之鈿女命(アメノウズメノミコト)の別宮・椿岸神社などがあり、参拝しがいがある。

 

《御祭神》

・猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)

 

《所在地》

・三重県鈴鹿市山本町字御旅1871

 

《データ》

・延喜式式内社(名神小社)

・旧県社

・別表神社

 

《備 考》

ちなみに、風水師の方や占い師等の方々もお勧めの神社ではあるが修験道的要素をいまだに維持しているため、「あそこに入ると良い」「あそこに行くと運気が上がる」と言われても、現在入れない場所も多々あり、当所に限らず、ご神域はその点に留意して行かないと「神をも恐れぬ行為」になりかねないので注意が必要である。

 

《ホームページ》

http://tsubaki.or.jp/

尾張国

 

〇眞清田神社(ますみだじんじゃ)

 

こちらは物部氏の製鉄の神+太陽神・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、それに尾張地方の祖神+尾張氏の別の太陽神・天火明命(アメノホアカリノミコト)の神々様の習合の社とでもいうべき社であろうか。

 

もともとが同族ではないだろう。物部氏は剣がシンボルは剣。尾張氏は鏡がシンボル。

 

饒速日命は、北九州地方から東遷の際に、物部氏を随伴し、さらに丹後の一族と結合(海部氏)、何代目かの天火明命(アメノホアカリノミコト)を襲名後、ヤマトに入り、縁組しているのかもしれない。

 

この尾張には、一の宮は、真清田神社と(尾張の)大神(おおみわ)神社がある。二の宮・大縣(おおあがた)神社は、天津彦根命あるいは少彦名命がご祭神。三の宮は、熱田神宮である。これらは、エライ順と言うよりも、国衙からの距離(近い順に若い番号)で番号がふられたと考えられる。

 

尾張(愛知)や美濃(岐阜)は、歴史的に見ても陸路の交通の要所であったため、各種神様がどんどん習合していると思われる。

 

しかし、物部氏でも。古代の氏姓制度で「連」(むらじ)であり、尾張氏はその下の「直」(あたい)である。これは元々のその地域の氏族とは言えないということ。真清田神社との関係を示す文献や伝承は(今のところ)は残って居ない。

 

中世末期から江戸期においてのご祭神は「国常立尊」説が根強かった。明治期も、天照大神・月夜見神・大己貴神・大竜王神を合わせて5柱。

 

国常立尊信仰は、近江国辺りでも多く見られるものえあったが、良くも悪くも、明治期神社制度が確立する時点で絞られ、現在の尾張氏の祖神・天火明命とされて今日に至る。

 

《御祭神》
・天火明命(アメノホアカリノミコト)

 

《所在地》
・愛知県一宮市真清田1-2-1

 

《データ》
・延喜式式内社(名神大社)
・尾張国一の宮
・旧国幣中社
・別表神社

 

《備 考》
ここは岐阜の金華山を祖山として、境内にゆるやかにエネルギーが注ぎ込むように作られたパワースポットでもあり、御祭神の天火明命は、国土開拓産業守護の神である。したがって、仕事運出世運にとくにご利益がある。まぁ、お守りを見る限り、健康祈願災難除けも良さげである。


ちなみに、お守りは(どれを入手するか)迷った時は、とりあえず「交通安全」(とくに木札)がいいと思う。交通安全は、他者の能力や運転の他、いろいろな要素が絡み合うため、守るのが一番難しい。

 

そもそも、お守りが内容別に祈念しているというわけでもないのだ(笑)。だから、交通安全ができるお守りならば、なんでもできる。あとは色や相性(あ、これいい的)のほうが大事。目的がはっきりしていればそれはそれで手に入れても構わんのだが。

 

《ホームページ》
 http://www.masumida.or.jp/

越後国

 

〇彌彦神社(いやひこじんじゃ)

 

こちらもお付き合いの長い、素晴らしい神社である。

 

創建年代は不詳であるが、『万葉集』にも歌われる古社で、越後平野西部の弥彦山(634m)をご神体として山麓に鎮座(里宮)している神社だ。正門をくぐり、拝殿を見ると「ほぉ~」となる。

 

また、石上神宮(奈良県)や物部神社(島根県)と同じく、「鎮魂祭」を行う神社として有名である(弥彦神社の鎮魂祭は、4月1日11月1日の年2回)。11月上旬には、里宮の境内にて、菊祭りが行われている。

 

2015年、現在の社殿が再建されたのが大正5年なので、数えて100年目となる。なぜ再建したかと言うと、明治45年に大火で、本殿を始めほとんどが焼失したらしい。

 

すごくご利益のある、素晴らしい神様だが、得意不得意が極端にあるようだ(「火難除け」「道中安全」は不得意?)。でも気にするほどでもない。現在かなり神様もパワーアップされているからだ!(笑)

 

では何が特に良いかと言えば、産業発展・商売繁盛・五穀豊穣・厄除けである。その他、人間関係に関するもの、恋愛はもちろん、仕事などでの交渉力などもアップするという。

 

御祭神・天香山命(天香語山命:アメノカゴヤマノミコト)は、地名から伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)、手栗彦命、熊野高倉下(クマノタカクラジ)命、あるいは単に高倉下命とも称されている、大国主大神同様、多名である。これは多様な御働きがあることや、また「何代」かいっしゃる由緒ある名、という場合がある。

 

物部氏の祖神・饒速日命の子で、物部氏の祖・宇摩志麻治物部神社)とは異母弟にあたり、尾張氏・熊野氏の祖でもある。

 

弥彦山の山頂にある「奥の宮」は、御神廟とされ、天香山命とその姫神・熟穂屋姫命(ウマシホヤヒメノヒコト)の霊所である。ご神名がはっきりしていながらも、いろいろ謎があって、それも楽しいと思う。結局、真実はわからないのだから。

 

《御祭神》
・天香山命(アメノカゴヤマノミコト)

 

《所在地》
・新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898

 

《データ》
・延喜式式内社(名神大社)
・越後国一の宮
・旧国幣中社
・別表神社

 

《備 考》
この神社、正式には弥彦(イヤヒコ)神社なのだが、地名が弥彦(ヤヒコ)になったため、弥彦(ヤヒコ)神社と呼ばれている。

 

御神体山の弥彦山へ登ることができるが登山ではややしんどい(笑)。そこで、車で弥彦スカイラインをうにうに上り、山頂駐車場に車を停めておく。そんでクライミングカーで崖を上に登り(弥彦山9合目)、あとは徒歩で奥宮(ご神廟)まで行くコースが最近の行き方である。

 

クライミングカーの山頂駅から、だいたい片道20分くらい。奥宮からの景色は絶景である。池袋のジュンク堂書店はまったく見えないが(笑)、眼下には、日本海が広がり、晴れていれば佐渡島もよく見える。

 

寺泊辺りの海岸線や信濃川、越後平野も一望できるのだ。もちろん、雨が降ったら最悪であるから、天気予報はよくよく見ておくべし。足腰の丈夫で、息切れしない方なら、ぜひぜひ一度は登ってくだされ!


《おやひこさま100年公式サイト》
 http://www.oyahikosama100nen.com/index.html

加賀国

 

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)

 

石川県と岐阜県の県境の白山(はくさん:2,702m)を神体山として祀っている神社である。元は現・古宮公園の場所にあったが、室町期に火災で焼失し、現社地(加賀国三の宮があった場所)に遷座している。白山山頂には奥宮がある。延喜式式内社(小社)、加賀国一の宮。旧社格は国幣中社にして、現・神社本庁の別表神社である。

 

教科書的には、日本三霊山の1つで古代から崇敬の対象である。神仏習合で修験道で有名なのは、717年(養老元年)に越前(現・福井)の修験僧の泰澄大師によって白山に登って開山されたことによる。

 

主峰と御前峰に奥宮が創建され、そこに白山妙理大権現が奉祀されたらしい。良くまぁ登られましたなぁ、やはり修験者は凄い。その泰澄大師の有り難いお話によれば、白山比咩大神(白山妙理権現)=伊弉冉尊(イザナキノミコト)=本地仏・十一面観音となるわけだが。つまり、菊理媛神(ククリヒメノカミ)とは、若いころの伊弉冉尊(イザナキノミコト)となるのであろうか。


以後、白山本宮・加賀国一の宮の白山比咩神社は室町時代前期に至るまでの約500年間栄えることになる。

 

白山信仰の拠点として、加賀馬場(白山比咩神社)、越前馬場(平泉寺白山神社)、美濃馬場(長滝白山神社)の三馬場があり、その1社である。

 

しかし、1455年の加賀国に侵攻した加賀一向一揆により、年貢米が得らず困窮。1480年に大火で全焼、三宮に遷座するも一揆で白山衆徒が皆殺しにされ廃絶。織田信長配下の前田利家が加賀を掌握するまで100年間荒廃してしまう(悲しい)。

 

時は立ち、明治維新以後は神仏分離令で、再び白山本宮 加賀国一の宮白山比咩神社となった。今度は、加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社のどこがトップか?の争いが生じた。史料が調査され、白山比咩神社が総本社とされ、越前と美濃は分霊の白山神社とされる。まぁ古代から越の国は気が荒いのだろうなぁ・・・。

 

ご祭神もいろいろ喧嘩しているから仕方がないのか。『日本書紀』には、伊弉諾神と伊弉冉神が喧嘩していた(というレベルではないが)のを菊理姫神が仲裁したという話がある。その「黄泉の国」の妻のもとへ行っていた伊奘諾尊に菊理媛神が何か言ったが、伊奘諾尊(イザナギノミコト)はこれをお聞きになって、その言葉をほめ、その場を去ったという。

 

うううん・・・、まぁ想像すれば、黄泉比良坂(おそらく熊野)の入り口あたりで昏睡状態になり、「あの世」の伊弉冉尊(イザナミノミコト)のところへ幽体離脱か何かで訪れていた伊奘諾尊に「早く現世に戻るように」とでも伝えたのだろうか。まぁ、あの世にいつまでもいて、死んだ女房に固執していると自分(伊弉冉尊)も危なくなるから起こしたのかも知れない。

 

《御祭神》

・白山比咩大神 (シラヤマヒメオオカミ)

 ※菊理媛大神(ククリヒメノオオカミ)と同一神とされている。

・伊邪那岐尊(イザナギノミコト)

・伊弉冉尊(イザナミノミコト)

 

《所在地》
・石川県白山市三宮町ニ105-1

 

《データ》

・延喜式式内社(名神小社)

・加賀国一の宮
・旧国幣中社

・別表神社

 

《備 考》

こういう雰囲気の神社でご利益うんぬんは野暮な感じもするのだが、「開運」「縁結び」「縁切り」(これはここの神様が必要か不要な人間かを判断するのでチトこわい)「健康長寿」「病気平癒」「家内安全」など。中でも「開運」「病気平癒」「家内安全」には定評がある。

 

でも、まぁ怒られるかもしれないが、地元の方々はともかく、外部から来る者は「健康」や「病気平癒」以外は、お願いごとをする神社ではないかな、と思う。

 

この神社は、参拝してどう人生が「良く変わって行くか」を神様にお任せする「ご利益のお任せコース」のような場所だと思うからだ。天津神とは、そもそもそういう神様。

 

だから参拝するなら、よくよく自分の願いを説明しないといけません。神社は「クマさん」もよく参拝するみたいだしw、自然の中で身も心も浄化され、人生悪いようになりようもない(笑)。
 
《ホームページ

http://www.shirayama.or.jp/access/train.html

津軽国

 

○岩木山神社(いわきやまじんじゃ)

 

青森県の岩木山の南東麓にある神社。旧社格は国幣小社である。戦後、新たに一の宮に相当する神社を選定した「新一の宮制度」では、津軽国一の宮とされている。

 

東北平定した坂上田村麻呂が岩木山大神(おそらく地主神)の加護を感謝し、山頂に社殿を再建(すでに祀られていた)した。その後、下居宮(おりいのみや=麓宮の現・厳鬼山(がんきさん)神社が建立され、山頂の宮は奥宮となったが、この時点でも、岩木山大神の祭神は詳細は不明。別天津神五代などの神々様を習合し、集団神(習合神)となり、やがては神仏習合の神様ともなっていく。

 

《御祭神》

・顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)
・多都比姫神(タツビヒメノカミ)
・宇賀能売神(ウカノメノカミ)
・大山祇神(オオヤマツミノカミ)
・坂上刈田麿命(サカノウエノカリタマロノミコト)


《所在地》

・青森県弘前市百沢字寺沢27

 

《備 考》

寛治5年(1091年)、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座、その距離から多くの沢を越えた場所の意、百沢寺(ひゃくたくじ)と称し、現在の岩木山神社の元となっている。

 

神仏習合したため、岩木山の山頂の宮は、阿弥陀如来薬師如来観音菩薩の3つの堂が立ち、

真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称した。

 

帝王(皇帝)の象徴である「北極星」を守護する、北斗七星の神の化身ともいわれ、仏教における四天王のうちの北方守護神(天部の仏神)の、多聞天(毘沙門天は同一神と
される)とされる。

 

ゆえに北方としての東北地方には、鬼門鎮護の毘沙門天が多く祀られている。しかし、この神様、本国インドにおいては財宝神(クベーラ)であり、戦闘には弱い神らしい(強いのその弟神)。だから財宝神であるがゆえに、岩木山大神は金運の神であるのだ。

 

江戸期は、津軽藩総鎮守となり、歴代の藩主の津軽為信・信牧・信義・信政らに篤く信仰され、岩木山の噴火でやたられた、社殿や楼門が造営・寄進され、いまの神社の社殿や社叢の陣容が整えられたが、明治期の神仏分離令により百沢寺が廃絶し、津軽総鎮守・岩木山神社となる。

 

現在では、青森県はもちろん、東北屈指のパワースポットとして人気があり、愛情運・金運・子宝運、そして運気向上の神様として信仰が篤い。個人的には、加えて神仏習合神として
のご神力か、邪気をはらう神社であると考えている。

 

《ホームぺ―ジ》

http://www.isejingu.or.jp/index.html

常陸国

 

○鹿島神宮(かしまじんぐう)

 

とうとう出ました。御祭神・武甕槌大神は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神・経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主大神と話し合って国譲りの交渉を成功させた。

 

神社創建は、初代神武天皇の御世。神武天皇はその御東征での窮地に、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われたという。これらの神恩感謝として、皇紀元年この地に勅祭されたと伝えられる。「神宮号」は、明治期に乱発されるまで、伊勢神宮の内宮と外宮、香取神宮の4社にしかおくられていなかった。

 

例祭は、毎年9月1日に行われ、12年に1度、午年、つまり今年(2014年)の9月御船祭も斎行された。 強烈なパワースポットとして語られることが多い神社ではあるが、『古事記』『日本書紀』には武甕槌大神と鹿島神宮の関わりについての記載はない。そもそも、「鹿島」自体が出てこない(香取は字が違うがいちおう出てくる)。

 

太古の昔から、鹿島大神=武甕槌大神とされていたわけではないのだ。というか、関わりはないだろうな(笑)。

 

『常陸国風土記』でいう御祭神「香島の天の大神(カシマノアメノオオカミ)」とは、経津主大神(香取神宮の御祭神)の「元神様」を指していると思われる(こちらもいろいろと癒合されてはいるが、鹿島神宮よりはわかりやすい)。


元来島信仰とは、応神朝以後、ゆるゆると関東に入って来た信仰と思われる。対する香取神宮は応神朝の匂いはあまりしない。

 

さて、この強大な神社のご神徳は、心願成就・家内安全・除災招福・商売繁盛・企業隆昌・旅行安全とそれはそれは幅広いのだが(佐藤は家内安全)、経験上、飛行機以外の交通安全はあまり得意ではないと思われるフシがある(笑)。まぁ、近くの〇〇〇・〇〇寺も同じであるから有名どころは、どこでも似たようものなのかも知れない。

 

《御祭神》

・武甕槌大神(タケミカズチノオオカミ) ※『古事記』では建御雷神。

 

《所在地》

・茨城県鹿嶋市宮中 2306-1

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・旧官幣大社

・勅祭社

・別表神社

 

《備 考》

ちなみに「八幡宮御縁起」では、「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」とある。

 

福岡県の志賀島では、鹿島大明神(シカノシマダイミョウジン)、茨城県の鹿島神宮では、鹿島大神(カシマオオカミ)、奈良県の春日大社では、春日大明神(カスガダイミョウジン)であり、同じ神様として祀られているという。

 

ここでいう、磯良神(イソラシン)とは「阿曇磯良」を指しているようで、阿曇氏の氏神がなぜ藤原氏(というか中臣氏か)の氏神・武甕槌大神と同一神とされているのか。また、茨城県にある大生(おおぶ)神社も、鹿島神宮の元宮とされており、こちらは多氏で出雲大社とも繋がっているが、どう関わりがあるのか。

 

謎の多い神社であるが、そのご神力は巨大であるのは間違いない。だからこそ、各氏族が取り合ってきたのだろう。まぁ、効かない神様を取り合う者はいないからね(笑)。さすがは鹿島大神というべきであろう。

 

《ホームページ》

http://kashimajingu.jp/

 

 

○大宝八幡宮(だいほうはちまんぐう)

 

白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(701年)、藤原時忠が、常陸国河内郡へ下向の時、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという。

 

《御祭神》

・誉田別命(ホンダワケノミコト/第15代・応神天皇)

・足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト/第14代・仲哀天皇)

・気長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト/神功皇后)

 

《所在地》

・茨城県下妻市大宝667

 

《備 考》

敢えて、今ふうに直せば、筑紫国とは、現在のほぼ福岡県に相当する九州北部の地域(やがて筑前国と筑後国に分けられる)であるから間違いと言える。

 

ご祭神の八幡大神とされる「誉田別命応神天皇)」ご自身は「筑紫国」(筥崎宮)生まれたが、実際に勧請した「宇佐神宮」がある大分県の地域は「豊後国」であり、宇佐神宮は、豊後国一の宮である。だから、豊後国の宇佐八幡宮(宇佐神宮)からの勧請であろう。

 

ただし、京都はもちろん、当時の「関東人」の感覚では、九州は遠くて、筑紫辺りまでしか都人(みやこびと)の藤原氏には区別がつかなかっただろう、ちなみに藤原時忠(藤原鎌足の玄孫らしい)。

 

ご神徳は、宝くじ当選祈願交通安全身上安全厄除病気平癒など、ほぼ「オールマイティ」と言える。

 

とりわけ、近年では、名前の大宝(大きい宝)にかけて、宝くじが当たるという信仰もあり、神社によれば、平成17年から宝くじの当選祈願をしており、祈願を受けた売場での高額当選は累計で1等3本など、総額獲得賞金30億円以上とのこと。

 

もちろん、その戦績も素晴らしいしあやかりたい(笑)が、神社の近隣にある保育園児たちが、お宮を前にすると「いつも守って頂きありがとうございます!」とみんなで挨拶しているのが素晴らしかった。これが地域に根づいた鎮守様の役割を果たすのだ。もちろん、程度問題はあるが。

 

《ホームページ》

http://www.daiho.or.jp/taskguide.htm

 

 

吉田神社(よしだじんじゃ)

 

水戸市の中心地の南にある朝日山(と言っても小高い丘)の頂上に鎮座している。上まで車で行けるし、案内板は親切。駐車スペースも広い。遠くにイオンモールが見える(笑)。御祭神は、日本武尊がおひとり(神道的には1柱)である。

 

いわゆるヤマトタケルノミコトの東征神話との関わりがあり、ミコトの聖跡の岩(ここに腰かけ、お休みになったらしい)がある。武神の日本武尊を祀るが、『常陸国風土記』でこの水戸市あたり(那賀郡)にヤマトタケルノミコト伝説はない。平安期以降後付の話かもしれないが、茨城県の県庁所在地にふさわしい神社であり、鹿島神宮に次いで式年造営も行われただけのことはある。太陽の陽光がまぶしい、まさに朝日で輝く神社であった。

 

《御祭神》

・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

 

《所在地》

・茨城県水戸市宮内町3913−2

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・常陸国三の宮

・旧県社

 

《備 考》

 常陸国は、一の宮が鹿島神宮、二の宮が静神社、三の宮がこの吉田神社である。ヤマトタケルがご祭神であるので、自分がすんごい災いにあったせいか(?)厄除けが得意。また、勝運守護なども強いらしい。

 

《ホームページ》
http://www.yoshidajinja.jp/

 

 

○息栖神社(いきすじんじゃ)

 

社伝では、鹿島神宮の武甕槌大神(タケミカヅチオオカミ)、香取神宮の経津主大神(フツヌシノオオカミ)による葦原中国平定において、出雲大社の大国主大神(オオクニノヌシオオカミ)の指示で、東国へ同行・先導にあたった神とされている。


鹿島神宮・香取神宮・息栖神社で、いわゆる「東国三社」として信仰を受けている。鹿島神宮と香取神宮は、「なんらかの理由」で関東から畿内(京都や奈良ほか)に戻ってほしくない一族の神社なのでしょう(笑)。実際、そこから勧請した春日大社は「大社」でしかなく、「神宮」は送られていない。

 

これ(神宮号)が送られていれば良いのであれば、上賀茂・下鴨神社・石清水八幡宮も神宮号を送られていてもおかしくないのだが送られていない。

 

奈良で大きいのは石上神宮と橿原神宮ぐらいか。どちらも明治になってから送られているはず。本来、政権中枢にある一族には不要、つまり「宮」は御所以外は不要であったのだろう。この息栖神社も由緒ある神社だが送られてはいない。

 

さて、主祭神の久那戸神(クナドノカミ)は、ご利益は、『記紀』神話からみて、疫病・災害などをもたらす、悪神・悪霊の侵入を防ぐ神様であり、完璧な厄除招福・交通安全の神様である。
その上、 住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)・天鳥船神(アメノトリフネノカミ)が相殿として祭られている。


ちなみに、塩土老翁神猿田彦神と同じとする説も多いが、いずれにせよこのかたが出雲の神々様の祖神ではないかと思われる。


島根県出雲市大社町修理免にある、出雲大社摂社出雲井社(出雲路社:いずもぢのやしろ)の案内板によると、


祭神  岐神

この神は勇武にして地理に明るく、大国主大神が国譲りの際、大神の命によって経津主神に随伴して諸国をめぐり 

不逞の者を平げ帰順せしめて天の下を統一せられた功神であります。


とある。そうか、この神様、武甕槌大神ではなく、経津主大神の同伴者であったのだ。


《主祭神》
・久那戸神(クナドノカミ/岐神:フナトノカミとも)
 ※「大祓詞」に出てくる祓戸大神(はらえどのおおかみ)のひとり、気吹戸主(いぶきどぬし)の説もある。

 

《所在地》
・茨城県神栖市息栖2882

 

《データ》
・国史見在社
・旧県社
 
《備 考》
・東国三社参り(三社を詣でる事)をするとご利益三倍増(?)で、三か所でシールを入手しなければ完成しない「東国三社守」がある(神紋シール二社は別売)。三社目が香取神宮の場合はお守り、鹿島神宮の場合は木札、息栖神社は・・・何かあるとかないとかは不明(笑)。

・国史見在社(こくしげんざいしゃ)とは、『延喜式』に記載ないが、「六国史」(『日本書紀』~『日本三代実録』)に記載のある。いわゆる国史見在社で、格が高い神社とされている。「六国史」に出てくる神社は、ほとんど式内社であるが、通常は出てこない式外社のことをいう。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、伊邪那美命(イザナミノミコト)から逃げる伊邪那岐命(イザナギノミコト)が「ここから先、雷神は来られんじぞ!(言霊?)」と言って投げた杖から、カプセル怪獣ならぬ神様、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとある。ここにウルトラセブンの原型をみないことはない。
(原文:時伊弉諾尊、乃投其杖曰「自此以還、雷不敢來。」是謂岐神、此本號曰來名戸之祖神焉。)
 
《神栖市観光協会ホームページ》
http://www.kamisu-kanko.jp/power/

 

 

御岩神社(おいわじんじゃ)

 

茨城県日立市にある神社。けっこう山の中であり、車で行くしかない。日立中央インターから日立中央IC入口信号を右折(県道36号線)し、10分ほど山を登り、本山トンネルを過ぎて下り坂を降りたあたり、遠いぞ。

 

創建の時期不明らしいが、縄文晩期の祭祀遺跡の発掘されたり、『常陸國風土記』(721年)に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」とされている。まぁ『風土記』では神様vs国家権力という感じで、「神聖」というよりも、「やっかいな存在」として描かれていて興味深い神様もいらっしゃる。

 

古代から「ヤマト政権」は往往にして失礼な勢力であったのだが、奥宮のかびれ神宮の神様はは地元民にとってもやっかいな神様であったのだ(笑)。


御祭神は、国常立尊・大国主命・伊邪那岐尊・伊邪那美尊ほか、20柱に加え、御岩山総祭神188柱が祀られている。しかも仏様もいるから「なんでも」願いを聞いてくれる。

 

中世には山岳信仰が入り、神仏混淆の霊場となる。凄いのは、江戸時代には、バリバリの形式的神道好きの水戸藩の初代・徳川頼房公が、なぜか出羽三山まで勧請して、水戸藩の国峰としたという。

 

さらに光圀公(いわゆる水戸黄門)などの歴代藩主が参拝を常例とする祈願所であったという。いや~、かなり水戸から離れてますよ、ここ。そこに毎年来るらしいから、並大抵の信仰心ではない。


遺跡、祭事内容には古代信仰、あちらこちらに仏像があり、神仏習合色がはっきりと残っている。「神仏を祀る唯一の社」と標榜するだけあった、他の神社や寺には見られない独自の信仰形態である。

 

こういう神社のご利益云々はヤボかも知れないが、オールラウンドである。ただし、主祭神が純然たる神様の中の神様、国常立尊であるからして、人間界の細々としたお願いがわかってもらえるかは不明であるが。

ここでは「悪い気」を抜いてもらって、「良い気」を入れて頂くほうが良いかも知れない。だから、体調の悪い時や精神的に落ち込み過ぎて居る時にはあまりお勧めできない。まぁ好き嫌いが分かれ、参拝者を選ぶ神社かも知れないが、一度は行ってみたい神社である。

 

《御祭神》

・国常立尊(クニトコタチノミコト)
・大国主命(オオクニヌシノミコト)

・伊邪那岐尊(イザナギノミコト)

・伊邪那美尊(イザナミノミコト)

 他二十二柱


《所在地》

・茨城県日立市入四間町752

 

《備 考》

・ここは以前、茨城県日立市の大甕(おおみか)神社に伺った折り、熱心な地元参拝者の方とお話する機会があり、「茨城県なら泉神社と御岩神社がお勧めですよ」とのこと。泉神社は参拝後であったが、「御岩神社?」という感じであったが、機会を得て来てみると、確かに素晴らしい聖地である。

 

「正統派」(神社〇庁系な形式的神道好き)の方には神仏習合で、やや、特殊な神社だからお気に召さないかも知れない。

 

とは言え、平日び来ても参拝客が夕方までひっきりなしに来る。けっこう山の中で「こわい」感じがするのだが(笑)。群馬県の榛名山神社や青森県の岩木山神社に気がにている感じ。ほんとうに山の中にある。ここに来ると延喜式とは違う「信仰の価値観」があることが体感できる。

 

《ホームぺ―ジ》

http://www.oiwajinja.jp/

武蔵国

 

氷川大社(ひかわたいしゃ)

 

皇居のおひざ元、武蔵国の一の宮。関東人は、大宮氷川神社(氷川男体神社)ともいう。

 

この神社も謎が多く、関東近辺の神社の争いで衰え、一時三の宮扱いになったり、中山神社氷川女体神社当社の三社合わせて、一の宮・氷川大社という話、ご祭神の変遷、出雲とは関係が見られないのに出雲系のご祭神であるなど、謎が満載だが、まぁそこまでは突っ込まない。

 

元々「氷川」という名前も、氷川女体神社のあたりを「水沼」と読んでいたことから来た。それが→「水河」「水川」「氷川」という誤字の変遷の可能性が高いと思われる。だから、島根県の斐伊川から来たという来歴は現状考えにくい。

 

神社草創期は、漢字文化の草創期でもあり、草書体からの読み間違いや単純な書き間違いが多く、400年ぐらいで、その国の文化圏も再構築されることもあり、紙では保存しにくい状況下ではしかたがないところであろう。

 

もともと、大伴系や物部系、地主神と祭神が融合していったものと考えられるが、この神社が関東で重視されて来たのは間違いない。圧倒的に関東にある氷川神社を見れてもわかる。なにしろ、正月三が日の初詣の参拝者数も毎年全国10位以内にはいっている。

 

祭神が誰であれ、関東の産土神としての地位はゆるぎないのだ。ご利益は、「出雲系」であることを前提にしてあるが、そもそも出雲系は出雲大社くらいしか、縁結びはあまり利かない。なぜなら、古代は個人の家同士や村レベルの政略結婚なのだ。恋愛など、一部を除けば、明治以後の風習である。

 

したがって、縁結びがいいとされる神社は「人間関係が良好なる」「誰かを呪う」など、人間関係関連がご利益と考えた方がいいかもしれない。

 

氷川大社は、知恵・創造力の増進は昔から言われている。「交通安全」「厄除け」「仕事運」「家庭運」対策があると思う。もちろん、そういう意味での「縁結び」もいいであろう。余談であまり宗教系の団体とかかわりがない神社とも言われている(笑)。

 

《御祭神》
・須佐之男命 (スサノオノミコト)
・稲田姫命 (イナダヒメノミコ)
・大己貴命 (オオナムチノミコト)

 

《所在地》
・埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407  


《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・武蔵国一の宮
・旧官幣大社
・勅祭社
・別表神社

 

《備 考》

・ここは「王道の神社」であるから、苦手という分野はあまりない。しかし、極めて得意という分野もない。「縁結び」に特化するなら、川越氷川神社のほうがいい。あちらはあちらで、複雑な「戦国時代」を経た神社らしいさが残るよい神社だと思う。

 

《ホームページ》
http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/

 

 

赤坂日枝神社(あかさかひえじんじゃ)

 

日枝神社(ひえじんじゃ)は、千代田区永田町2丁目にある日枝神社を他の日枝神社と区別をするため、都民は便宜上「赤坂日枝神社」呼んでいる。ちなみに都内の女子高生は「にちえだ神社」と呼んで大人の目を剥かせるが、もちろんわざとである(笑)。

 

平安時代末・「江戸」の起源となる江戸氏(武蔵江戸氏とも。平良文の孫・将恒を祖とする秩父氏の支流の一族)が山王宮を祀り、新たに太田道灌によって川越城の鎮守・山王社(滋賀県・日吉大社から大山咋神)を勧請し、江戸城内に移築した。さらに、徳川家康が駿河から武蔵(江戸)に移らされ以後は、江戸城の鎮守・徳川家の産土神となった。

 

山王祭(江戸三大祭の1つ)で神田明神の神田祭と交互に子・寅・辰・午・申・戌年の隔年で行われている。

 

主祭神・大山咋神(オホヤマクヒノカミ)、相殿・国常立神(クニノトコタチノカミ)、伊弉冉神(イザナミノカミ)、なぜか足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト/仲哀天皇)を祀っている。

 

昭和期にあった社殿は国宝に指定されていた(江戸初期権現造の代表的建物)が、19455月の東京大空襲で焼失し、1958年に再建された。ちなみにここは「星が岡」と呼ばれ、星ヶ岡茶寮(ほしがおかさりょう)という北大路魯山人ゆかりの料亭があった。

 

こちらは、商売繁盛縁結び厄除開運交通安全安産祈願など、幅広いご利益がある。ここでは、猿田彦大神と神猿が「魔が去る(サル)」まさる守などのお守りなどで大活躍である。

 

《御祭神》

・大山咋神(オホヤマクヒノカミ)

・国常立神(クニノトコタチノカミ)

・伊弉冉神(イザナミノカミ)

・足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト)

 

《所在地》

・東京都千代田区永田町2丁目105

 

《データ》

・准勅祭社(東京十社)、

・旧官幣大社

 

《備 考》

江戸の鬼門を護る江戸総鎮守が神田明神なら、裏鬼門を守る江戸城総鎮守が赤坂日枝神社である。境内には、山王稲荷神社猿田彦神社八坂神社3社合殿の拝所があった。その中の山王稲荷神社は大空襲でも生き残ったため、境内でもことさら特別な存在感を放っているが、拝殿前の石造りの牝牡の神猿像さんたちが1番輝いているのかもしれない💛。ぜひぜひ彼らに会いに来てください。きっと皆さんが来るのを楽しみにお待ちしてますよ。

 

《ホームページ》

https://www.hiejinja.net/  

 

王子神社(おうじじんじゃ)

 

王子神社と言ってもたくさんあるからわかりにくいかも知れない。こちらは、東京都の北区にある神社で、東京ではそこそこ有名で有る(笑)。桜の時期は近くの飛鳥山公園親水公園で、お花見で盛り上がる場所でもあるし、わが佐藤家の産土神さんであり、研究所の守護神の1社でもあり、月参りも行っている大切な神社である。

 

創建代は不詳。しかし、平安時代(11世紀)に、またまた源 義家公が奥州征討の際に当社に参拝し、鎌倉時代の元亨2(1322)年ごろには、紀州熊野三社(三山)より王子大神を勧請したとある。しかし、ここの神社は「2社」が合わさった神社であるのはあまり知られていない。

 

1社は、今の王子神社がある場所に勧請された王子権現(おうじごんげん)であり、もう1社は、飛鳥山にあった飛鳥明神(あすかみょうじん)である

 

まず王子権現は、現在の和歌山県新宮市にある浜王子(はまおうじ)の熊野九十九王子のひとつから勧請されたという(前回の南海トラフで崩壊)。この熊野九十九王子は、熊野権現の御子神を祀る王子社であるというのが現在の認識であるが、実はそうではない。

 

浜王子は、承元4(1210)年の「修明門院参詣記」などの史料では、新宮・那智の間にある阿須賀、高蔵、佐野、一乃野の4社の王子社の存在が語られているが、浜王子の名は見当たらないという。そりゃそうだろう。この神社このころまで「神武東征の際に熊野灘で嵐に遭った際、自らの身を海に投じて嵐を鎮めた2柱の神、稲飯命と三毛入野命を祀った」のを起源とする古代の海神を祀る宮であったからだ。

 

つまり、王子権現とは、本来は、稲飯命(イナイノミコト)と三毛入野命(ミケイリノノミコト)であり、神武天皇の兄であったのだ。やがて熊野信仰が流行るとともに熊野権現の御子神を祀る王子社として取り込まれていった。

 

少なくとも豊島氏が王子神社に勧請したときはこの神様であったはずだ。豊島右近太夫景村なる人物は、現・和歌山市の付近を根拠地としているのに、わざわざ浜王子から呼んだのだから、知らないとは思えない。

 

ここに勧請したのは、元亨2(1322)年らしい。文明5(1474)年になると、『九十九王子記』に「浜王子」の記載がやっと現れてくる。熊野信仰は強烈で各地でこのように「ご祭神の書き替え」が行われていたという。元々、出雲→伊勢→熊野と、出雲国造さんたちの分派が新宮市まで来て、その神々様と御子神やその他の神様を吸収し、熊野九十九王子は形成されてのだろう。遠隔地ゆえに神社へ呼び込む御師の方々も必死であったろうとお思う。


さて、もう1社は、音無川対岸の飛鳥山に、王子権現とともに熊野から勧請された飛鳥明神(あすかみょうじん)である。

 

こちらは、熊野速玉大社の末社にして、熊野九十九王子の王子社(阿須賀王子)の1社であり、徐福一行が上陸した地に建立された阿須賀神社(あすかじんじゃ)とされる。平成28(2016)年に世界遺産に追加登録されている。ちなみに飛鳥山とは蓬莱山(ほうらいさん:本は中国の霊山の名)の別名らしい。

 

ご祭神は、事解男命(コトサカオノミコト)・熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)・熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)・家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ)と、現在のご祭神にかなり近いがなぜか家津美御子大神がいない。東京都でもこの神様はたいがい省かれている。別格なのか、熊野信仰とは本来筋違いの神様なのかはわからない。


しかし、この飛鳥明神は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645年)には、なんと王子権現に合祀されてしまった。
その後、徳川八代将軍・吉宗公がその境内地(現・飛鳥山公園)を元文2(1737)年に王子権現に寄進し、江戸庶民に健全な遊興地とすべく開放され、明治維新で公収されるまで続いたのだ。つまり海神の神々様は合祀され、神社では表記されることもなく、消えることになったのだ。

 

ただし、彼らは故国・日向国(宮崎)へ生きて戻り、高千穂神社のあたりで平和に暮らしたというアナザーストーリーもあるのだ。そこで海神から田圃の神に変わり、一族で暮らしたという。

 

こちらの王子神社の例大祭で奉納される「王子神社田楽舞」その名残りと言えなくもない。お祭りの日にだけ、かってのご祭神が遊びにやってくるのを想像すると、ちょっとホッとする感じがする。

 

《主祭神》
・伊邪那岐命(イザナギノミコト)
・伊邪那美命(イザナミノミコト)
・天照大御神(アマテラスオオミカミ)
・速玉之男命(ハヤタマノオノミコト)
・事解之男命(コトサカノオノミコト)

 

《所在地》
・東京都北区王子本町一丁目1番12号


《データ》
・准勅祭社
・旧郷社


《備 考》
音曲諸芸道の神の蝉丸公(神霊)、髪の祖神の逆髪姫(神霊)と古屋美女(神霊)が祭られた関神社関蝉丸神社)。また、北区無形民俗文化財に指定されている「王子神社田楽舞」が例大祭に奉納されている。貴重な儀式を含む田楽舞として貴重である。

 

他にも「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木や多くの樹木が茂り、あの勝海舟も修行したと伝えられる名勝であったが、昭和20(1945)年の戦災で社殿を始め、焼失してしまった。戦争はもうこれっきりにしなければ、ならないとヒシヒシと思う。

 

ここのご利益は、まぁ「火除け」であったが戦争ではしかたがないから、「開運厄除」「子育大願」であろう海神のご祭神は、1年に一度のお出ましと相成ったかもしれないが、出雲や熊野からのご祭神が張り切って東京都を支えて頂いている。

 

佐藤家の産土神にして、研究所の守護神の1社であり、おだやかで大国様のような懐の深い神様である。ぜひぜひ桜の季節には、飛鳥山とともに、王子神社の神々様にも会いに来て頂きたい。神々様も喜んでお守り下さるに違いない。

 

《ホームページ》
 http://ojijinja.tokyo.jp/goyuisho/

相模国

 

箱根神社(はこねじんじゃ)

 

箱根神社、旧社格は国幣小社。かつては箱根権現三所大権現と称されていた。本来は、里宮も元宮も、単純に神山を中心として、箱根山塊の神々様を「箱根大神」として祀られていた信仰だろう。

 

神仏習合が進むと「箱根権現」として信仰されるのだが、本来は、風水的に富士山(神山山頂上に見える)の激しい「陽」の気を直接受けないように、神山で柔らかい「陰」にして、駒ヶ岳でその強力な気を受け取るシステムにしていたと考えられる。

 

里宮を開いたという万巻上人の話は、箱根の山岳信仰(箱根元宮)とは、あまり繋がっていかない。元宮とご祭神が全く違うし、元宮は関所跡のほうに駒形神社が里宮として存在しているからだ。しかも箱根神社の境内にもひっそりと駒形社があり、つまり違う神様なのである。

 

神仏分離後、祭神は「箱根大神」として、瓊瓊杵尊木花咲耶姫命彦火火出見尊の総称とされた。とは言え、ご三神とも、箱根自体にゆかりはない。その中で、彦火火出見尊は、神武天皇を祖父とし、日本神話の「海幸山幸」に登場する山幸彦(ヤマサチヒコ)とされる人物である。だから、山岳信仰と関連がないともいえなくはない。後々、海も制圧するわけだし(笑)。

 

この神社のご利益は、なんといっても「開運祈願」「心願成就」「道中安全」だろう。祭神自体は、おとなしく、やや地味な神様のように思えるが、そこはそれ、フットワークも軽そうだし、束ねている神々様の量が違う。だから「開運祈願」「心願成就」に対して、すばやく動いてくれる(気がする)のだ。ここが大御所の神様の神社とは異なる特長だと思う(笑)。

 

《御祭神》
・箱根大神(瓊瓊杵尊:ニニギノミコト、木花咲耶姫命:コノハナサクヤヒメノミコト、彦火火出見尊:ヒコホホデミノミコト)の3神の総称。

 

《所在地》
・神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1
 
《データ》
・旧国幣小社
・別表神社

 

《備 考》
箱根界隈の「都市伝説」として、某集団がこの山塊を根城にし、この神社を中心に「風の噂」を流し、それを実現させて、政権を脅していたことによる心願成就という噂がある。これも、頼〇の暗殺に失敗してから下火になったらしい。有名な「〇〇兄弟の敵討ち」などは当時の幕府(重臣)へのテ〇であり、純粋な行為というよりも政治色彩が強いと考えられる。

 

だから、参道にあっても一度も参拝したことはない。九頭龍神社は好き好きであるが、湖畔の社に行けるのならば、行ったほうが遥かに効く。知らない間に縁結びに効く神社になっていた。元々は確か金運向上であったと思うが、時代が変わり、参拝客層が、おじさんから若い女性に替わったのだろうか? 今でも金運神社として、愛して止まない社のひとつであるが(笑)。

 

《ホームページ》
http://hakonejinja.or.jp/

 

寒川神社(さむかわじんじゃ)

 

2013年から、首都圏中央自動車道(茅ヶ崎JCT‐寒川北IC)が神社と相模川の間に並行して開通したため、神社への参拝途中に富士山が見えなくなり、ちょっと景観が落ちた。

 

古代には相模湾がここまで入り込んでいたらしいせいか、冬場は寒い。だから寒い川の(近くの)神社なのだろうか。日本で唯一の八方除専門(かけもちの所はある)の神社である。と言いつつも、八方除のバリエーションで、交通安全・商売繁盛・開運・縁結び、そうなんでもやってくれる。テレビや俳優視聴率祈願の神社としても有名らしい。

 

記紀には記載がない。神社資料は焼けて創建の仔細もご祭神名も不明であるが、雄略天皇の時期に奉幣を受け、727年に社殿建立の記録があり、朝廷からも崇敬されている。戦国時代には武田信玄からも崇敬されたという。それに何よりも、わが研究所草創期からの守護神の1柱なのだ(笑)。

 

《御祭神》

・寒川比古命 (サムカワヒコノミコト)

・寒川比女命 (サムカワヒメノミコト)

 

所在地》

・神奈川県高座郡寒川町宮山3916

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・相模国一の宮

・旧国幣中社

 

《備 考》

ご祭神については、八幡神、菊理媛、素盞嗚命、稲田姫尊、猿田彦神などが候補にあがっていたが、八幡神(心願成就)、菊理媛(祓い)、素盞嗚命(厄除け)、稲田姫尊(縁結び)、猿田彦神(道開き)の神であり、しいて言えば、猿田彦神が近いが、川岸はテリトリーではないから、素盞嗚命かな。まぁ、個人的には石切劔箭(いしきりつるぎや)神社や宗像大社と雰囲気が似ている気がする。

 

現在、神社が標榜しているご祭神名は、内宮(伊勢神宮)の末社に牟彌乃(むみの)神社から来ている。そこのご祭神が寒川比古命寒川比女命であることから、その説が採用されたという。

 

でもこの「寒川」は伊勢市にある外城田(ときだ)川の異名であるし、川の水が冷たくて、寒かったことから倭姫命が命名したものだ。確かに寒いのは似ているが、関係性はうすい思う。

 

それだから、とりえず寒川神社だから寒川大明神なのは仕方がない。ちなみに交通安全が絶対的に必要な「ひゃ~参謀」によると、ここの厄除けと交通安全は無敵らしい(笑)。

 

《ホームページ》

http://samukawajinjya.jp/index.html

 

 

伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)

 

こちらには、意外と来る機会があります。相模国といっても横浜は、まぁ、DeNAベイスターズ(プロ野球)の本拠地もある(笑)。

 

ここに来て、こちらもいろいろあるがやっと盛り返してきた。さて、この神宮は、天照大御神を祭り、単に「皇大神宮」とも称されている。建は明治3年(1870年)と新しいが、旧社格は県社、横浜の総鎮守である。

 

《御祭神》

・天照大御神(アマテラスオオミカミ)

 

《所在地》

・神奈川県横浜市西区宮崎町64

 

《データ》

・旧県社

・別表神社

 

《備 考》

ご利益はお伊勢さまだから、所持万端である。小高い丘の上にあって、一直線には来れないので、元気が良くないとなかなか来れない(笑)。

 

ここは、「関東のお伊勢さま」なのだ。なにしろ、日が照って暑い。境内には出雲大社大神神社の遥拝社もあり、神々様は仲が良いのも実感できる(笑)。〇国神社のように政治的に利用してはいけない。ほんとうに参拝が目的ならば別ですが、それならば自宅の庭や国会議事堂の近くにでも御霊を分霊して拝めばとりあえずはいい気がするが、なかなかねぇ・・・。

 

《ホームページ》

http://www.iseyama.jp/reserve/

出雲国

 

須佐神社(すさじんじゃ)

 

 とうとう、この神社の登場である。スサノヲ(スサノオ)伝説は多種多様であり、人気もある。名前も表記(素戔嗚尊など)も多々あり、素晴らしい神社もたくさんある。その中でも、ここは最大級に素晴らしい神社のひとつである。

 『出雲国風土記』須佐社であり、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓を行い。自分の名前を土地につけて「須佐」と命名した場所なのだ。そして、自らの御魂を鎮めたとされ、須佐之男命の本宮といわれている。ここは、須佐之男命の子の八島篠命を祖とする須佐が社家を務めていらっしゃる。

 某・〇原さんが紹介したため、むちゃくちゃに知名度が上がった。素晴らしい神社だからねぇ、仕方がないか(笑)。

 当研究所の「ひゃ~参謀」、大のお気に入りの神社でもある。昼時はだいたい、いらっしゃらないので、12:00~13:00は避けた方がいいと思われる。

 元来、厄除けが主であったのだが、ミー・・・いや、若い参拝者が増えたせいか、近来はかなりフレキシブルな願意をお願いできるようになった。とは言え、ご祈祷は本格的であり、正装・正座が基本である。なんせ、ご神職が全身全霊で祈願を神様に奏上してくれるので失礼があってはいけない(まぁどこの神社でもそうなのだが)。

 ちなみに、よけいなお世話かも知れないがご祈祷料は「お心ざし」であった(ひゃ~参謀の過去のご祈祷時)。

 ただし、場所的には立久恵峡の奥の奥なので、以前よりはバスの本数も増えたがタクシーも併用(タクシーだけではかなりの金額になる)しないといけないなど、出雲空港からトヨタレンタカーなど(個人的好み?)で借りるのが望ましいと思う。まぁ行ってみてくだされ。

 

《御祭神》

・須佐之男命(スサノヲノミコト)

・稲田比売命(イナタヒメノミコト)

・足摩槌命(アシナヅチノミコト)
・手摩槌命(テナヅチノミコト)(須佐家の祖神)

 

《所在地》

・島根県出雲市佐田町須佐 730

 

《データ》

・延喜式式内小社

・旧国幣小社

・別表神社

・出雲國神仏霊場第十八番

 

《備 考》

 神社のご祭神名をみて思うのだが、手摩槌命が「須佐家の祖神」とされていることから、『古事記』などの話の筋から言っても、須佐之男命は、いまふうに言えば、稲田比売命の家系へ「婿養子」に入っているかも知れない。

 であれば、須佐之男命天照大御神天神)の弟でありながら、地祇(国津神)とされているのも理解できる。なにがどうであれ、やはり須佐之男命は素晴らしいのだ。

 

《ホームページ》

http://www.susa-jinja.jp/index.html 

 

日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)

 

こちらも島根県の出雲国での特異(?)で素晴らしい神社の1社。ある意味謎も多い。経緯から見ると、スサノオノミコト(神素盞嗚尊)のための神社である(はず)。出雲大社から車で20分くらいうにうにとした道を行のだ。遠くに三瓶山も見えてなかなかの景色である。

 

日御碕灯台の近くには、あの、隠ケ丘(かくれがおか)があり、日御碕神社が管理している。隠ケ丘とは、国造りを終えたスサノオノミコトが魂を鎮めて場所(御陵とも言われる)とされているのだ。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」と言われ、スサノオの総本宮とも言われるが、歴史的にはこの2社は仲が良くないらしい(笑)。

 

陰陽道の影響なのか、御砂守などの特別なお守りもあり、ぜひぜひ行って頂きたい神社である。ご神徳は、厄除・縁結び・家運繁栄・交通安全・海上安全・殖産興業など多数。

 

《御祭神》

・天照大御神(アマテラスオオミカミ):下の本社/日沈宮

・神素盞嗚尊(カムスサノオノミコト):上の本社/神の宮

 

《所在地》

・島根県出雲市大社町日御碕455

 

《データ》

・延喜式式内社(名神小社)

・旧国幣小社

・別表神社

 

《備 考》

出雲国では、確かこの神社と佐太神社だけが、出雲大社の権力外の神社であり、京都の宮家の管轄であった(と思う)。さらに伊勢神宮が「日の本の昼」を守り、日御碕神社は「日の本の夜」を守れとの「勅命」を、神の宮は安寧天皇、日沈宮は村上天皇から受けた神社である。もとは対岸の小島の経島(ふみしま)に祀られていて、宮司さんしか行けないという。

 

佐太神社といい、この日御碕神社といい、いかにも神職にご神力が宿りそうな感じがする神社であった。

 

《出雲國神仏霊場公式ホームページ》

http://www.shinbutsu.jp/51.html

 

 

出雲大社いずもたいしゃ

 

明治以前は、杵築大社(きずきたいしゃ/きずきのおおやしろ)と呼ばれていた。こちらは島根県、いや日本を代表する神社の1つである。

 

主祭神は、大国主大神オオクニヌシノオオカミ)である。ご祭神は、戦国時代などは、国譲りの一件のせいか、武将には、須佐之男命(スサノオノミコト)が好まれ、ご祭神とされた時期もあった。でも、国宝本殿の後方の素鵞社(そがのやしろ)で十分存在感があるし、やはり、ここは大国主大神なんだよなぁ。他には考えられない。有名な「神在り月」もこの神社のスケールからみれば、いち行事に過ぎないのだ。出雲大社については簡単に語ることはできない。

 

佐藤のブログでは、出雲大社の古代史的考察など、いろいろ試みては来たのだが、2018年に再び訪れてみると、そのような理屈よりも「やっぱりいい神社だなぁ」という思いが強かった。

 

わが研究所の神社好き、「ひゃ~参謀」も昔は「出雲大社? 行きたいけど、島根だからなぁ・・・。一生に一度行ければ良いかなぁ」と言っていたが、結局10数年で100回以上参拝したのだ。

 

物凄い(佐藤は+10回くらいだがww)ご神縁力である。空港も整備され、出雲縁結び空港からも直行バスが出ている(30分くらい)。

 

これだけ、完璧な神社は早々は巡り合えない。ぜひぜひお勧めである。

 

《御祭神》

・大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)

 

《所在地

・島根県出雲市大社町杵築東195

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・出雲国一の宮

・旧官幣大社

・勅祭社

・別表神社

 

《備 考》

 佐藤は「平成の大遷宮」にまつわる関連行事もあまねく見せて頂けた。いろいろなグッズも手に入れた。もう次回の遷宮は大人であれば、皆見れないのだなぁ・・・。

 

まさに縁結びの神様である。実際にいろいろな素晴らしい方々に縁を繋いで頂けた。これは一生の宝物であるし、思い出にである。ただ、ただ、ご神縁力には感謝しかない。

 

強いて言えば、最後にご祈祷した頃から、昇殿参拝のご祈祷の御札が「オリジナルなもの」でなくなった。それが残念であるのと、本殿後方の「うさぎさんのオブジェ」はあそこにはないほうが良いと思う。それぐらいしか出雲大社にはほとんど文句がない。

 

いろいろな試みをなされ、批判も受けただろうが、参道や参拝路が石畳になって、雨の日にもある気やすくなった。

 

外部の人間の印象に過ぎないかもしれないが、島根県そのものが東京や大阪のあまり良くないものがたくさん「侵入」していることが気がかりである。良いものならば、問題ないのだが。変な縁までいらんと思うのだけどなぁ。

 

ご神徳(ご利益💛)は、もちろん、縁結び商売繁盛家内安全企業隆昌身体健全心願成就など。困ったときは頼りになる神様である。

 

《ホームページ》

 http://www.izumooyashiro.or.jp/

 

 

長浜神社(ながはまじんじゃ)

 

 

国引き神話の主人公である八束水臣津野命(やつかみずおみずぬ)を主祭神とする神社である。この神社を語るときは、出雲大社須佐神社のように熱く語れない。良くも悪くも、「出雲国」の暗部にも触れなければならないからだ。ウィキペディアなどを見ても、この神社のことは通り一遍のことすら書かれていないのだ。凄く魅力的な神様で、良い神社なのに・・・。

 

国引き神話は、『出雲国風土記』の冒頭に書かれているが、さりとて扱いが良いわけではない。肯定派がなんとかその功績を押し切ったとでも言おうか。

 

『古事記』『日本書紀』には載っていない。ヤマト王権と手を務ずび掛けた出雲国にもこの時点では、存在してもらっては都合の悪い神様なのだろう。国引き神話に出てくるように、この神様が引っ張って来た国は、新羅はともかく、彼や彼の子孫が軍事力で支配下に治めた土地と思われる。西は島根県浜田市あたり、東は能登半島あたりまでを勢力に治めていた。

 

数ある神様の中でも著名な大己貴命(オオナムチノミコト)とは、数代に渡る神様が襲名したご神名と言われている。もともとは縄文時代の火山の噴火を収めるために、火山を祀った名前(大穴持)から来ていると言う。

 

ずばり伯耆大山(ほうき・だいせん)の神様であり、だからこそ「巨人伝説」の神様で「国引き」可能なのである。噴火が収まるころは、等身大の大己貴命が活躍する。「記紀」神話に出て来る「巨人」としての須佐之男命(スサノオノミコト)は、この神と入れ替えたと思われるのだ。

 

八束水臣津野命は、豪快で女性好きのようにいろいろな地元の伝説でも書かれている。須佐之男命の歌として有名な「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」を詠ったのも八束水臣津野命である。『出雲国風土記』では彼が歌っているが、その意味がまるで違う。

 

元々『出雲国風土記』には八岐大蛇(ヤマタオロチ)の話もないし、須佐之男命「大神」としても扱われていない。後世に「記紀」との繋がりを付けるために、須佐之男命と「交代」したのだ。そもそも、大田市五十猛町の海岸から上陸した、須佐之男命と息子の五十猛命(イタケルノミコト)と娘の大屋津姫命(オオヤツヒメ ノミコト)と抓津姫命(ツマツヒメノミコト)は、神別れの坂で別れ、須佐之男命は吉備の国の方へ向かい、五十猛命たちが出雲に入るのである。

 

だから須佐之男命は、もしかしたら、出雲には存命のうちに入ったことがないかもしれない(出雲での活躍は息子の五十猛命の物語なのかも知れない)。その他、置き替えられた伝説はたくさんあるが、八束水臣津野命佐之男命も、その価値を落としたいわけではないので、これ以上の考察はしない。

 

出雲としては、須佐之男命の持つ系譜が欲しかったろうし、八束水臣津野命の系譜を消したかったのだろう。元々はあちこちに祀られていたのだと思うと寂しい感じがする。

 

式内社でも一の宮でもなく、ひっそりと長浜神社に祀られている。遠くは兵庫県宍粟市にある伊和神社(いわじんじゃ:大己貴神)や、奈良の三輪神社大物主神(こちらも数代いる)も、彼が入っているのではないかと思っている。彼が収めていた国の1つ、石見(いわみ)も命名は八束水臣津野命である。宍粟市の名は彼の王都であった「宍道湖と粟嶋まで」と一致するし、出雲がさぞや恋しかったのか、社殿は「出雲大社」の方を向いているという。

 

彼か何代かあとの跡継ぎのやや横暴な面や強硬なやり方が反感を買ったのか、王国の衰えとともに、政治を担った一族は外に逃げざるを得なかっただろう。大人しく、沈黙を護れる一族だけが残っていることができたのかはわからない。八束水臣津野命に関するアナザー神話もあまり良い話がないからね・・・。

 

出雲で大国主命となった何代目かの大己貴命は、八束水臣津野命の入り婿であり、多くの政略結婚で切り抜けることに成功したため、安泰であったと思われる。そこがそれ、大国様である。縁まさに結びの神様なのだ。

 

《主祭神》

・八束水臣津野命(ヤツカミズオミズヌノミコト)

・布帝耳命(フテミミノミコト)

・淤美豆奴命(オミズヌノミコト)

 

所在地》

・島根県出雲市西園町上長浜4258

 

《データ》

・旧県社

・出雲國神仏霊場第19

 

《備 考》

延喜式神名帳の出雲神社に比定される出雲神社は、この長浜神社ではないと思う。『出雲国風土記』出雲郡条の「出雲社」は、近年入山料の徴収して評判の悪いG淵寺の近くにある、出雲神社(出雲大社の元社と言われ、ご祭神が八束水臣津野命建御名方神(タケミナカタノカミ)なのだ)が怪しい。

 

余談だが、余所者から見れば、島根県人はシャイで人見知りが凄いため、かなり強行で高飛車に見えることがある(ここらへん八束水臣津野命の子孫だなぁと感じる)が、付き合えば大国様のように温かく、優しい人々である(みんなじゃないけど)。

 

たまたま、お互いの誤解や文化の行き違いによって、島根に行く人が減るって聴くのは悲しいなぁ。でも誰だって嫌な思いをしたら行かないからね・・・。

 

我々が出かけていたころは、長浜神社の神職さんは、我々が参拝し社務所に寄って帰るときに、よく太鼓を叩いて送ってくださった。それを遠くに聞きながら、心が温かくなったものだ。

 

また、松江市の佐太神社売布神社や他の神社の神職や、地元のお店のの方々とも少なからず温かい交流があった。「よう遠くからお出でくださった」と笑顔で声をかけてくれた。何度も行くとわかるんだよなぁ、こういう温かみがさ。他の地域よりもぐっと濃くなるんだよな。伝わらないのは残念である。

 

さて、ちなみにご利益は、武勇の高い神様だけあって、「武道・スポーツ上達」「勝負に勝つ」である。まぁ国譲りをしちゃう神様には、なかなか勝つことは祈りにくいのだろう(笑)。県内のスポーツチームは、こちらか佐太神社で必勝祈願をしていることが多いようだ。その他にも手広く活躍されただけに「商売繁盛」も効果がある。

 

確かに島根と言えば、出雲大社八重垣神社に行くかもしれないが、機会があれば、長き階段を登って、国引きの神様にも会いに行って欲しい。ややツンデレか気味かも知れないが、ほんとうは優しい、強い神様に会うことができますよ。今でも研究所の大事な神様で、神社ですから!

 

《ホームページ》

 http://www.nagahamajinja.com/

上野国

 

鷺宮咲前神社(さぎのみやさきさきじんじゃ)

 

この神社のロマンは、なんといっても、経津主大神が、健御名方神(タケミナカタノカミ)を追って、双方、上野国と信濃国の国境の荒船山のほとりにそれぞれに陣を行き、対峙し合った名残であること。これは、神話の神々様が「直接対決」した数少ない現場の史跡であるに尽きる。

 

《御祭神》
 ・健経津主命(タケフツヌシノミコト)

 ・大己貴命 (オオナムチノミコト)
 ・保食命  (ウケモチノミコト)

 

《所在地》
・群馬県安中市鷺宮3308

 

《データ》

・上野国神名帳従五位上
・吉田神祇菅領宗源宣旨正一位
・村社・神饌幣帛料供進指定社

 

《備 考》

現在の上野国一の宮・一之宮貫前神社の先の宮として崇められ、咲前神社が祀られる。以後、磯部郷前宮跡は、改めて香取神宮から経津主大神を勧請した。ご神徳は、除災招福・開運厄除・身体健全ほか。

 

《ホームページ》
  http://www.sakisaki.net/index.html

 

 

 榛名神社(はるなじんじゃ)

 

まぁ当研究所で行った神社を好き勝手に書いてるだけであるから、このコーナーは誰も気にしていないかも知れないが(笑)、群馬県庁の32Fにある展望ホールから見える、榛名山(はるなさん)・赤城山(あかぎやま)・妙義山(みょうぎさん)で、上毛三山は絶景なのだ。

 

これに匹敵する絶景は、富山県富山市にある呉羽山公園展望台から見える立山連峰(めったに見れないが)と、島根県大田市西の原から仰ぐ三瓶山、福島県耶麻郡裏磐梯の諸橋近代美術館の庭園から見る磐梯山かなぁ・・・、好き嫌いはあるだろうけど。

 

榛名神社にまつわる政治的な変遷なら、同神社のHPをご覧になるのが良いと思う。しかし、ご祭神に関しては全く触れていない、というか触れにくいのであろうから書いてみる。ふつうはそこが1番問題なはずだ。

 

榛名山が火山であるからにして、現在は、主祭神として火産霊神(ホムスビノカミ)・埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)で落ち着いている。その他、水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合祀している。

 

神社は、榛名山の中腹に位置しており、御神体は社殿背後の惚れ惚れとするほどデンジャラスな位置にある御姿岩の洞窟中に祀られているという。いや~、あの岩の中にありますかか・・・。神事の難易度が高いでしょうねぇ。

 

古代は延喜式式内社であるから、山岳信仰といっても、神様が主体であり、中世以降~明治までは元湯彦(モトユヒコノミコト)が主祭神とされていた。記紀では、出てこない神様だと思うが、『日本歴史地名大系』では、東征しているらしいから、本拠地は畿内であとうし、日本武尊のモデルの1人かも知れない。その東征の際にこの地の山に命(みこと)が所持していた石剣と石玉を神体にして、自ら祭祀したとある。

 

その際の初期の祭神は、なぜか彦火火出見尊元湯彦命であった。彦火明命(饒速日尊)彦火火出見尊を混同しているのかも知れない。のちに埴山姫を合祀した。『榛名山志』には、東殿に饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、中殿に元湯彦命(モトユヒコノミコト)、西殿に熟真道命(ウマシマデノミコト:宇麻志摩遅命)と記されている。

 

古くから碓氷郡一帯には物部系の石上部が居住していた。ここらには石上神社もある。山岳信仰は基本的には、鉱物資源を手に入れる調査と思われる。だからこそ、知識がある専門集団や行者や僧侶など、中国などからの文物や留学で知識のあるものしか関われない。

 

ちなみに、物部氏は血族連合というより、同業者(鍛冶・製鉄・軍事)連合に近く、大伴氏や忌部氏・中臣氏などと違い、全国にいても必ずしも親戚というわけでもない集まりである。

 

元から山の神を祀っていた所に、製鉄一族の物部氏が入り込み、元湯彦命(饒速日尊子孫)が山の神々様に加え、祖父と父を合祀し、やがて自らも合祀された。物部氏の勢力が衰えると、藤原氏が入り込み、物部色は消され、その後は、山岳信仰や寺社勢力が中心にあり、神仏習合などがなされて、明治維新後は、段階を経て、現在のご祭神に収まったと思われる。

 

《主祭神》

・火産霊神(ホムスビノカミ)

・埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)

 

所在地》

・群馬県高崎市榛名山町849番地

 

《データ》

・延喜式式内社(小社)

・上野国六宮

・旧県社

 

《備 考》

こういう神社を斎庭(ゆにわ)とでも言えば良いのだろうか。物理的にきれいとか、人間が好むような清潔さが問題なのではなく、神々様が気持ち良くなるような清浄な場所である。今ふうに言えば、パワースポットなのだろうが、少し違う気もする。

 

パワースポットは、環境(自然や風水)の力によるものが大きい。ご祭神の力による所は小さいと思われる。箱根や三峯なども、ご祭神の力も関係あるかも知れないが、場所的な力の方が巨大であろう。

 

ご利益は良く言われるような関東屈指の強力なパワースポットと言うよりも、斎庭的な場所だけにゆるやかに、ほど良く、良い気が降り注ぎ、随時開運に恵まれて来る場所である。加えて、願う側が饒速日尊などの「人格神」に願うか、山の神々様に願うかでも、得意分野が変わるかも知れない。

 

前者ならば、人間の気持ちがわかりやすいから「心願成就」が有効だし、後者ならば、大自然の運気を頂けるので「開運招福」が有効である。どちらも緩やかに願いが叶うタイプである。

 

速効性がある、ご神気は体調が急に悪くなったり、「祟られているのか」と心配にもなる。これは、神社やご祭神の力が強すぎて、人間の許容度を越えてしまうのだ。でもまぁ、命に別状があった場合は、祟られたのかも知れないから、失礼のないように気をつけないと。

 

来てみればわかると思うが、天から良い気が降り注ぐ場所である。言われなくても、運気の良い場所は、立ち止まってしまう。「ここがパワースポットで・・・」などの解説はほとんど必要ない場所だと思う。

 

ホームページ》

  http://www.haruna.or.jp/ 

下総国

 

香取神宮(かとりじんぐう)

 

御祭神・経津主大神とは、出雲神話に出てくる神様。『日本書記』には出てくるが、『古事記』には鹿島神宮の武甕槌大神(タケミカヅチオオカミ)は出てこない。ちなみに『出雲国風土記』には布都怒志命(フツヌシノミコト)として出てくる。

 

神代の昔、天照大御神(伊勢神宮の神様)が日本の国を治めようと、天穂日(出雲国造家始祖)・天稚彦と使者を送るが大国主大神に従ってしまい頓挫。

 

そこで、高天原で神々様が集い、八百万神々様が口を揃えて推薦したが、この。その場にいた武甕槌大神(鹿島神宮の神様)が抗議したため、二神を出雲に派遣し、談合か脅迫かはわからんが、大国主大神を説得。二神は日本の国を平定して、天照大御神の元へ復命されたという神話。

 

物部の祀る神様か、忌部の祀る神様か、その他の神様を吸収したのかはわからないが、古代から関東地方でも有数の絶対的な神様である。物部や出雲の「経津主大神」とは必ずしもイコールではないかも知れないし、なくても構わない。鹿島神宮の武甕槌大神とともに、高天原の最強神のひとりであることは違いない。

 

《御祭神》

・経津主大神(フツヌシノオオカミ)

 

《所在地》

・千葉県香取市香取1697

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・下総国一の宮

・旧官幣大社

・別表神社

 

《備 考》

 香取神宮は、関東地方を中心に全国にある香取神社の総本社。茨城県の鹿島神宮・息栖神社とともに東国三社とも言われる。三社でそれぞれ配布している同じ「三角お守り」に、三社のシールを貼ると、すんごいご利益があるという(笑)。また、宮中の四方拝で遥拝される一社でもある。古来より、国家鎮護の神とされ、皇室の崇敬も篤く。『神宮』を持っている(明治期以前は、伊勢内宮・伊勢外宮・香取・鹿島の四社だけ)。

 

だから単純に重要拠点の神様だからというだけではないのだ

 

武神であり、平和外交の神様である。家内安全・海上守護・心願成就・縁結・勝運守護・交通安全・災難除けの神として信仰されている。

 

《ホームページ》

 https://katori-jingu.or.jp/

 

千葉神社(ちばじんじゃ)


これで千葉神社の解説かいと言われれば少々困るのだが、神社が創設されるのに功があった、平 良文(たいらのよしふみ)公は、京都から関東に下向した平安時代中期の武将である。

 

彼らや平 将門(たいらのまさかど)公などを中心に、上野国~常陸(現・群馬~茨城)の辺りで一族で争い、妙見菩薩が付いたり離れたりすることから書かねばならないのだが、あまり興味がわかないので端折らせて頂く。一族の内紛としか見えないからである。


やがて、一族が下総(現・千葉)に移って千葉氏を名乗りその守護神となる。確かに千葉氏は、坂東八平氏・関東八屋形の1つとされる大豪族(下総)であった。また守護大名および戦国大名ともなった一族だが、手厚く保護していたはずの源頼朝に裏切られて殺されるのだ。


でも、我々からすれば、これらの歴史は、妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)が建立してくれたから、「良い神社(当時は寺)を作ってくれましたねぇ」というくらいにしか感想はないのだ。なんせこの内紛は関東にしか影響を持たない歴史だからだ。もちろん、千葉市の歴史を語るのときには、熱く語らせて頂くがここは神社のお話。


相殿に、経津主命(フツヌシノミコト)がいるのは、千葉進出時に香取神社の境内に間借りしていたらしいこと、千葉市自体が下総国(香取神宮が一の宮)であるから、おかしくない。

 

また、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相殿なのは、群馬から千葉へ向かう前に、埼玉の奥地に向かい、秩父神社と「習合」することによるのだろう。いや~、ここからが俄然楽しくなる。


秩父神社は、高御産巣日神の息子神・八意思兼命(ヤゴコロオモイノカネノミコト)の子孫が祀った神社とされるが、本来は武甲山の山岳信仰が中心であったと思われる。


勝手に想像すると、八意思兼命は「ある戦い」で一敗地にまみれ、素戔嗚尊(スサノオノミコト)瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とともに、高天原から出ていくことになる。彼らは強力で由緒のある神様でも「太陽神」にはなれなかったのだ。


場所が島根に変わる。

 

日御碕神社の社家は、素戔嗚尊の末裔を名乗る「小野氏」である。ここは本来「日沈の宮」を先に祭っている。創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守り」、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」との「勅命」を受けて作られた神社だからだ。

 

でも神社では、天照大御神の日沈宮の上座に、わざわざ素戔嗚尊の神宮(かみのみや:上宮)を作り、祀っている。


かつて、八意思兼命は父神越えをねらったが「太陽神」の交代に失敗した。親子とは言え、寿命が長い神々様の世界では「実力行使」以外に世代交代はないからだろう。

 

彼は豊葦原中国に下向し、その子孫は関東に渡り、小野氏を名乗っているという。秩父神社で、日御碕神社を摂社に持ち、中でもひときわ大きく扱い、大切にしているのだ。


これは不思議でしょう? 処罰を受け、ボロボロになった素戔嗚尊をヤマタノオロチのいる、まだ危険な出雲へ追放したのは、八意思兼命のはずだ(やがて自分も責任を問われ、追われることになる)。しかし、素戔嗚尊はその困難を切り抜け、出雲はともかく平和になった。


その抹殺を図ったと思われる神の子孫がなぜ素戔嗚尊を祀っているのか? しかもその出雲の地で。これがまた興味深い。


八意思兼命戸隠神社中社(長野)静神社(茨城)大洗磯前神社(茨城)でも祭られているが必ず「監視役」の神様が付いている。いいねぇ、このラスボス感がさ。嫌いじゃない。


その子孫が妙見菩薩、いや妙見八幡菩薩(複数ではなく1神)と習合し、いわゆる妙見尊星王(ミョウケンソンジョウオウ)を祀ることになる。この時点ではまだ、妙見菩薩は武甲山日本武尊の甲冑が埋められた山。だから日本武尊のはず)の男神に恋する女神なのだ。


そして、正妻はなんと「お諏訪様」というw。それが「秩父夜祭」の日にだけ、正妻の許可をもらって会うことができる日なのだ。だから相殿にいるのだろう。


そして、八意思兼命は、父神・高御産巣日神のように太陽神を自由にはできなかったが、天界の最高神・北極星の神様天之御中主(アメノミナカヌシノオオカミ)を手中にすることで悲願であった、父越えを果たすことになり、ようやく安息の境地を得たのだろう。今では親子で日本の困った政治について熱く語り合っているであろう。

 

《主祭神》
・天之御中主大神(アメノミンカヌシノオオカミ)
・経津主命(フツヌシノミコト)
・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

 

《所在地》
・千葉県千葉市中央区院内1-16-1


《データ》
・旧県社

 

《備 考》
仏教や道教の神仏「妙見菩薩」という神様は存在しないという。妙見信仰は、古代バビロニア(現在のシリアやイラクの地方)から、インド、中国を経て日本に到達した神様とされるている。

 

この神様が、藤原忠明公により創建された、群馬県高崎市天台宗妙見寺(みょうけんじ:本尊は釈迦如来)、古くは七星山息災寺と号した寺に妙見菩薩が祀られていた。これはまた羊妙見とも呼ばれており、多胡碑の「羊」との関連が疑われる。なんせ群馬は羊太夫藤原宗勝公の羊神社もあるのだ。いや~、怪しい怪しい楽しい(笑)。


先ほどいやいや語った(笑)平 良文公が、平将門の乱で追い込まれ、不思議な声に導かれたのがまさにこのお寺なのだ。そこで僧から七星剣を渡され、妙見菩薩の加護を受けるようになったという。のちに秩父神社千葉神社は当寺から勧請されているという。


そんで、千葉神社としてのご利益は、この神様のご神徳が「善星皆来・悪星退散」ぜんせいかいらい・あくせいたいさん)でありから、つまるところ「厄除開運」、特に「星祭厄序」が強力であった。過去形なのは、近年なぜか「八方除け」の神様になってしまったからだ。


それなら、どこぞにその専門の神様がいらっしゃるので「二番煎じ」では有難味が薄くなったと「ひゃ~参謀」。そもそも天の星廻りを中心に厄を祓う「星祭厄序」と、地の負のエネルギーを最小限に抑え、正のエネルギーを活用する「八方除け」とは、ちと違うと思われる。


神社自体もいろいろ工夫をして考えてはいるのだろうが、「譲らないほうがいい」ものもある。迷走していてもやがてはきちんと戻ると信じている。妙見様がついているのだから(ここの「たまふりの儀」はほんとに素晴らしいのだ)。

 

《ホームページ》
 https://www.chibajinja.com/

信濃国

 

○御嶽神社里宮(おんたけじんじゃさとみや)

 

別名、木曽御嶽神社御嶽神社王滝口王滝口御嶽神社とも。ここで身を清めてから、木曽御嶽山頂上の奥社に参拝する。長野県側と岐阜県側からも登れるが、ロープウェイもあり、登山道もなだらかなので長野側から登る方々が多いようだ。

 

ここは、例の噴火(2014年9月)した御嶽山の長野県側にある里宮。噴火後、御嶽山の火山活動は低下したが、規模の小さな噴火は今後も突発的に発生する可能性は否定できない状態ではある(気象庁)。そりゃそうだろう。

 

今回はたまたま仕事で通り抜けるときに計画的に立ち寄っただけだし、冬場でもあり、そもそも入山できなかったし、(「ひゃ~参謀」の)根性も怪しい。言い訳ばかり。

 

伝承では、木曽御嶽山頂上の奥社は大宝2年(702年)信濃国・高根道基が創建。延長3年(925年)白川少将重頼が木曽御嶽山へ登り、社殿を再建。里宮は文明16年(1484年)再建、文亀3年(1503 年)再興と記録にある。

 

おそらく、流行初めは、江戸幕府が庶民の巡礼を ガス抜きでホイホイ(?)認めるようになったあたりか。天明2年(1782年)木曽御嶽山黒沢口、寛政4年(1792年)に木曽御嶽山王滝口に登山道が開かれた。

 

むかしのジサマ、バサマたちが、よく、「六根清浄」(ろっこんしょうじょう:人間に具わった六根〈眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根〉を清らかにすること)を口ずさんでいたな。

 

今の旅行代理店のごとく、寺社が御師などに依頼し、《講》を編成し、軽精進潔斎による木曽御嶽山登山を奨励していた。その中で御嶽講(山岳信仰・講)もブームになって全国に広まった(帰りに「遊んで」帰る口実になりましたし)。今日は至ってはまじめに御嶽教の信者が参拝を欠かさないお宮である。 長野側からは意外と登りやすい山でなのですよ。

 

里宮・十二大権現・八海山神社・三笠山神社・田ノ原大黒天・頂上奥社(ちょうじょうおくしゃ)の各社殿から構成されている。

 

《御祭神

・国常立尊(クニトコタチノミコト)

・大己貴命(オオナムチノミコト)

・少彦名命(スクナヒコナノミコト)

 

《所在地》

・長野県木曽郡王滝村3315番地(王滝御嶽神社別殿)

 

《データ》

・社旧県社

・木曽総社

 

《備 考》

もともと件の大噴火以前から、山の神々様に噴火のうさばらしを収めて頂くための信仰であるからにして、「何に効く」神社というわけでもないだろう。でも、そこはそれ、いちおう交通安全家内安全商売繁盛として名高い。

 

神社では「交通安全」以外は基本的に《得意技》をあげてはいない(〇峯神社のように裏メニューがあるやも知れないが)のだが、延喜式のもとの弘仁式と同じくらいの由緒を持ち、ご祭神が「国常立尊・大己貴命・少彦名命」なのだ。まぁこれだけの神様なら、いくらなんでも・・・・であろう(笑)。

 

古来から火山鎮火の神様としては、「大己貴命」「少彦名命」の神々様と一緒なのは、「素戔嗚尊」よりも、「国常立尊」が多いと思われる。素戔嗚尊は、ヤマト政権との関わりで、『古事記』は西日本以外は未公開の可能性が高いので、『日本書紀』に合わせて、すり替えられたのではないかとも《妄想》している。

 

《ホームページ》

 http://www.ontakejinja.jp/index2.html

 

 

諏訪大社上社本宮

(すわたいしゃかみしゃほんみや)

 

諏訪大社とは、長野県にある諏訪湖周辺の4か所にある諏訪神社の総称である。4社とも良い神社であるのだが、結局のところ4社とも別の神社であるので、話をまとまるため、佐藤の産土神様(というのか鎮守様というか)である上社本宮(かみしゃほんみや)の1社に絞ってつらつらと書く。

 

 

諏訪大社は、風水的に見ても現実的に見ても、湖の北面(やや北東か)は霧ヶ峰などがあり、黒曜石がする産出する豊かな経済圏でもある。現在にいたるまで、こちら側の方が賑やかで世界文化遺産もあるし繁栄しているなぁと言う感じ。

 

では、湖水南面はというと、特になんの経済圏でもないし、国譲りで遅れて来た勢力・建御名方神(タケミナカタノカミ)は、小競り合いの末、呼んでくれた、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)のいる、八ヶ岳山麓の空いていた茅野あたりに落ち着くしかなかったのだろう。今でもこちらは過疎化が進む閑散とした地域である。

 

元々諏訪大社の前宮は、噴火する御嶽山(おんたけさん:国常立命)を鎮めるための祭祀施設であったろう。より佐藤の生まれた場所に近い、諏訪大社上社境外摂社御射山神社(みさやまじんじゃ)のご祭神は、諏訪明神(建御名方神・大己貴神・高志沼河姫神)国常立命である。

 

今でも諏訪大社の宮司は、木曽の御嶽神社の兼務社に交替で行くと聞いた。もちろん、八坂刀売神は、建御名方神の妻神ではない。出雲系であるが世代はやや上なのだろう。だからヤマト王権の神々様とも面識があったし、「仲裁」も可能であったと思う。だから建御名方神も女神を頼ってこの地に来たのかも知れない。

 

現在の守屋山をご神体山となったのは、物部守屋の末裔(ミシャグジ神と習合か)により風水的な祭祀が持ちこまれたのではないか。南アルプスや北アルプスなど、東西南北の霊山のラインがクロスし、龍神が飲む水として、諏訪湖が使われたのかと考える。

 

だから、あまり守屋山は地元でも大事にされているとは言い難い。風水と信仰はチト違うのだろうな。信濃国入りしてからも、洩矢一族やいろいろな部族との戦いがあった。昔から信濃国は、でかいだけになかなか1つにまとまることが今に至ってもない県である。

 

建御名方神の気にいっていた場所は、プレ諏訪大社本宮の「善光寺」の場所と言われる。だからこそ、霊的に物部守屋の霊で封印し、建御名方神が戻れないように細工している。そもそも御柱がそれぞれの神様を封印している儀式なのだ(要するに神様は「出歩かないでほしい」ということ)

 

御嶽山の噴火に加え、さらに諏訪湖は中央構造線フォッサマグナの糸魚川静岡構造線が交差する場所であり、なんらかの大ごとが勃発したのか、前宮から本宮の位置(ドンピシャで、中央構造線のライン上)に移動して、フォッサマグナを押さえ込む役割を担っている(と思う)。それはそれは大変だと思う。

 

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と建御名方神の激突はロマン(?)があるが、本来は経津主神(フツヌシノカミ)とのバトルであったと思われる。鹿島神宮に諏訪社はないが、香取神宮は楼門の前にある(あまり良い扱いではないけれど・・・)。

 

この「フツヌシ」は真経津鏡(まふつのかがみ)に由来しており、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とは関係はないだろう。布都御魂剣はおそらく素盞嗚尊が父・伊邪那岐命から頂いた剣である。

 

経津主神は、出雲で大国主神の娘婿となった若経津主神(ワカフツヌシノカミ)のおやじであり、建御名方神の親戚である。仲も良いが喧嘩も良くしていたようで、群馬県の荒船山を中心に激しいバトルを繰り返した話が残っている。『古事記』は、神話を収載した日本式説話であるから、超能力を使う神々様が出て来るが『日本書紀』には出てこない。

 

『日本書紀』は日本の「史書」を目指したものであるため、「怪力・乱神」は出さない方針であり、当時まだ忌部氏(のちの斎部氏)はかろうじて政界の中枢にいたため(多氏はすっかり衰えていた)、忌部氏の氏神の経津主神は「怪力・乱神」としての『古事記』登場は見送られたのだと思う。

 

『日本書紀』に出てくる武甕槌神はあくまでもサブ扱いであり、強くても超能力は一切使っていない。だからこそ、神武天皇を助けに地上には行かず、夢の中で高倉下命に布都御魂剣を授けているわけだ。そうでなければ、当時、『日本書紀』の編纂に関わっていた、渡来人たちにバカにされてしまっただろう。同じ理由で出雲神話は『日本書紀』ではほぼ不採用になっている。

 

《御祭神》

・建御名方神(タケミナカタノカミ)

・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)

 

《所在地》

・長野県諏訪市中洲宮山 1

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・信濃国一の宮

・旧官幣大社

・別表神社

 

《備 考》

ご祭神論考は、これ以上深入りはできないが、風水的に考えるならば、諏訪大社下社の2社がお勧めである。ここは神様が云々というよりも、開運装置としての神社が見事に維持されているのだ。ご利益は「開運招福」「運気向上」などである。

 

ただし、下社は「ふつうの神社」であるため、ご祭神力はあまり期待できない。前宮は、ご祭神の力+装置としての機能もあっただろうが、武田信玄以降の戦乱で滅茶苦茶になったため、よほどの人物でなければ使いこなすことは難しいと思う。

 

ほんとに惜しいことをした。(間違った方法ではあるが)武田氏が崇敬していた諏訪大社(上社)を織田信忠(信長の嫡男)は焼き払った。その2か月後、織田信長は本能寺で焼かれ、相果てることになる。神仏は「借り」はキッチリと返すからね。 

 

それはともかく、本宮のご利益はどうかというと、「家内安全」「心願成就」に尽きる。これこそがご祭神の願うもので有り、御柱にイライラしつつも(だって封印してんだもの。効いてないけど)、地元の人々や遠くから参拝に来る者たちへのご祭神からのキモチでもある。

 

《ホームページ》

 

 http://suwataisha.or.jp/

紀伊国

 

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)

 

こちらは初めて行くことができた。和歌山県にある方の熊野系神社であり、主祭神の家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)を含め、12柱である。

 

家都美御子大神は、須佐之男命(スサノオノミコト)の別名とされるが、他にも息子の五十猛神など、多くの説がある。創建年代も不詳と言いつつ、崇神天皇御世とされる。旧社格は名神大社にして、官幣大社(現・神社本庁の別表神社)である。

 

熊野系の総本社は、基本的に島根県の松江にある熊野大社と個人的には思われる。地名などもかなり島根から入って来ているが深くは触れない。あちらは最初から国幣大社であり、こちらは最初国幣中社であったことからも想像がつくだろう。のちに戦争で情勢が怪しくなったとたん、官幣大社に格上げされた。末法の世になるとこの神社が持ちあげられるのは昔から変わらない。

 

主祭神の家都美御子大神は、熊野坐大神(クマヌニマスオオカミ)、熊野加武呂乃命(クマヌカムロノミコト)、ないしは熊野権現ともいう、神様の習合体と、須佐之男命とが別に祀られているくらいに考えたほうがいいかもしれない。西宮神社宇佐神宮と同じく、この神社は拝殿の配置も通常と違い、主祭神が第三殿に祀られているのだ。

 

ここは元来、日本各地から流された神々様に加え、仏教とキリスト教の信仰形態の影響も受けていると思われる。だから強烈に合体された神であり、復活(再生)する神でもある。

 

中世の歌人・和泉式部に仮託されて詠まれた歌に対して、夢に熊野権現が現われ、

 

「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」

 

と返歌をしたというくらい、穢れを祓い、穢れをものともしない神様なのである。だからこそ、参道に祓戸神社があったことには少し違和感があった。

 

旧社地は、水に流されやすいところにわざと祀り、だから簡素に作っている。流される度に直すのに費用がかかるからだ。それは人々の罪を背負って流される役割があったと思う。しかし、山の木々がご神域を包み、祀ったころより木が増えて保水できるようになってしまった。

 

そして本来の役割(流されること)を失念し、皮肉なことに山の木を大伐採してでかい社殿を作り、再び大水で流されるようになって社殿が流されたというのが明治のお話だ。

 

昭和30~40年代の世代にとっては、この本宮は格別な存在であった。スピリチュアル物や新興宗教系の人々が書いた神社系の本でも、この熊野本宮大社が最強と謳われていたからだ。そのため、世界遺産になり、交通網が整備されて、行きやすくなって皆が行けるようになった。

 

来てみると、想定外に社殿が小さく、境内も質素で穏やかであった。これじゃ強力な神社というより、優しい神社というイメージであり、いささか失望したのだろう。以後スピリチュアルな世界でもそこそこの評価に落ち着くことになった。

 

最初は確かに小さいなぁと思うが、順序通りにまわっていると、社殿は小さいが非常に大きい力を持つ神様群であることに気がつくのだ。特に、旧社地の大斎原(おおゆのはら)に行くと最高潮に達する。そこにある小さな祠こそ、本来の熊野本宮大社の祀られ方であることがわかってくるのが格別に楽しい。

 

《御祭神》

・家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)

※須佐之男命(スサノオノミコト)の別名とされる。

 

《所在地》

・和歌山県田辺市本宮町本宮1100

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・旧官幣大社

・別表神社

 

《備 考》

本宮のご利益は、なんといっても、再生(復活)大願成就大厄除けが強力である。しかし、時間がかかるのだ。大きい力が動くのはやはり時間がかかる。

 

余談だが、ここは参拝手順がややうるさい。でも、こういうところにはなかなか来れないし、ルール通りにまわると、「非合理的なまわり方」になるため、二三日かけないと熊野三山をまわれることは難しくなる。

 

まぁ、別に熊野三山を一緒にまわらなければならないとは思わない。元々それぞれが別個の神社のはず。また、行けばわかることだが、ふつうに見ればこの三社は「全然違うタイプ」の神社なのだ。それはそれはびっくりすると思う。来歴もご祭神も、本来関係ない神社だと思う。

 

だからこそ、八咫烏神日本磐余彦命(神武天皇)の話を持ってこなければ、この三社が繋がらないのだと言うことがわかるのだ。

 

もちろん神武天皇がここに来たことは事実だろうし、そもそも神武はキリストに仮託されている。だからここでひどい目に遭い、初代天皇となるのだ。

 

もし彼がいないなら、天孫降臨にして奈良や京都にすれば済むだけ。そもそも誰にウソをつく必要があるのかわからない。

 

それはともかく、こういう神社は、日本にも、世界にも類がないであろう。

 

熊野では、「伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕様へは月参り 」という。確かにあと2回くらいは行ってみたい神社に違いない。

 

《ホームページ》

http://www.hongutaisha.jp/

 

 

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)

 

 

熊野速玉大社熊野三山の1つで、熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)と熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)を主祭神とする神社で有る。

 

神社では、熊野速玉大神=伊邪那岐神(イザナキノカミ)、熊野夫須美大神=伊邪那美神イザナミノカミ)のこととしている(尊称はいろいろ)。基本的には「偉大な男神・女神」的な表現で有り、日本各地にそれぞれ違った「夫婦神」が祀られていると考えたほうが無難と思われる。

 

 

ちなみに、伊邪那岐命伊邪那美命『古事記』の表記で有り、伊弉諾尊伊弉冊尊は、『日本書記』の表記で有る。元々『古事記』は出雲中心の日本海側の「神話」であり、『日本書記』は神話から「史書」への脱却を図ったもので、反出雲的な太平洋側を中心とした「物語」である。

 

とは言え、『古事記』ではイザナミの御陵は比婆山(ひばやま)であり、『日本書記』では花の窟(はなのいわや)であり、本来は書記を推したいところだろうが、熊野三山は『古事記』の表記を採用しているという複雑さである。2004年(平成16年)7月に『紀伊山地の霊場と参詣道』ユネスコの世界遺産に登録された。

 

穂積氏が代々神職を務めたというから、住吉神社系の物部氏であろう。起源は、近場の神倉山(信じられないくらい登りにくい岩山)の磐座に祀られていた神様とされ、知らないうちに現地に祀られていたらしい(笑)。

 

神倉山は神武天皇も登った磐座ではあるが、神様が降臨したのはそれ以後であり、いわゆる熊野三山との関係性は特に感じない。住吉神社系の物部氏が一族の神・北極星(国常立尊)を祀ったものではないかと思う。

 

速玉大社12柱の神様が祀られている。第一殿 結宮 熊野夫須美大神(熊野結大神)、第二殿 速玉宮 熊野夫須美大神(熊野結大神)が主祭神だが、第三殿 証誠殿 家津美御子大神国常立尊であるからにして、本来は第三殿の国常立尊が主祭神であったと考えられる。この奥宮が玉置神社なのであろう。熊野三山の各ご祭神は、三社で長年話し合われて、いまの形で「共存」することになったのだ。

 

《主祭神》

・熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)

・熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)

 

所在地》

 ・和歌山県新宮市新宮1

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・旧官幣大社

・別表神社

 

《備 考》

熊野速玉大社は、平安期以来33年に1度の遷宮を行い、その度新たな神宝が調進されて来たが、1307年の社殿焼失後、朝廷がそれどころではなく援助できなかった。そのため仮殿のみで遷宮ができなかったが、1390年、時の室町幕府の将軍・足利義満が中心となり、遷宮ができた。確か島根の日御碕神社の社殿も、岡山の吉備津神社の社殿も、足利義満なんだよなぁ。だからなんとなく似ているのだろう。

 

来てみればわかるのだが、熊野大社の三社はすべて雰囲気が違う。こちらは神仏習合の「匂い」がほとんどしない、というか、「神社の中の神社」という感じのバリバリの神道的神社で社殿も1番華やかである。

 

ご利益は「大祈願成就」「人生の甦り(再生)」「富貴隆昌」「縁結び」「浄化(厄払い)」「人間関係運向上」などであるが、特に「大祈願成就」「人生の甦り(再生)」が強いと思われる。ただし、お守り類は三社で1番ノーマルであった(笑)。

 

《ホームページ》

 http://kumanohayatama.jp/ 

安芸国

 

嚴島神社(いつくしまじんじゃ)

 

教科書的(?)に書けば、古くは「伊都岐島神社」とも記され、全国に約500社ある厳島神社の総本社。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されているであろう。ここも素晴らしい、また、謎にあふれている魅力的な神社なのだ。

 

社伝では、593年(推古天皇元年)にこちらの地方豪族の佐伯鞍職公が神託を受け、勅許を得て、市杵島姫命を祀る社殿を創建したらしい。社伝で、推古天皇云々というときはやや注意が必要かも知れない。諸事細かい理由もあろうが、勝手に考えてみた。

 

まず、その佐伯鞍職公は、厳島に来る前は、石鎚山(現・愛媛県)に関わっていた賀茂氏族とされる。石鎚山頂上に賀茂の祖先神を降ろそうとしたが失敗(のちに同族・役小角公が開山に成功)したらしい。この方も原始修験者なのだろう。修験者や行者の多くはその知識を活かして、山などに入り、鉱物資源を調査・発掘していた。そもそも、お坊さんなら托鉢で食べるのが本道の修行であり、人里離れる修行はありえないのだ。

 

また、厳島神社は「大聖院」が奥の院とされたり、「宮島の弥山」を奥宮として拝んでいるというが、全然そちらを拝んではいないのが不思議なのだ。地図でその厳島神社の拝殿に先に何があるか。適当に延長してみると、なんと石鎚山であり、石鎚山山頂もまた「弥山」と呼ばれているのだ。

 

また、厳島神社のお守りには「厳島大御神」とされている。「大御神(おおみかみ)」と称されている神様は、『古事記』でも、伊邪那岐(イザナキ)・天照(アマテラス)・迦毛(カモ)ぐらいと思われる。

 

のちに平家がここを押さえるが、「伊勢平氏」だから本拠地は、伊勢国(現・三重県)である。だから、清盛公以降は、ご祭神が天照大御神に代わっていても不思議ではない。まぁ、ご祭神に関しては結局詳細は不明。であるから、天照大御神宗像三女神という説もあることから、現在の市杵島姫命田心姫命湍津姫命でも、なんの不都合はない(笑)。

 

しかし、いろいろな興味はつきない神社である。ここの国宝の本殿、海上の大鳥居はやはり逸品。何度見ても飽きることがない。どこが「残念」なのかわからんて。

 

おっと、ご利益は、交通安全・試験合格・縁結びを全面に押し出してはいるがさて? むしろ、心願成就必勝祈願商売繁盛、または航海安全のほうが劇的に効くなぁという感じです(笑)。

 

《御祭神》
・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)

・田心姫命(タゴリヒメノミコト)

・湍津姫命(タギツヒメノミコト)

 

《所在地》
・広島県廿日市市宮島町1-1

 

《データ》
・延喜式式内社(名神大社)
・安芸国一の宮
・旧官幣中社
・別表神社

 

《備 考》
厳島神社の役割は、出雲大社と同じく、「厄を引き受けること」ではないか。だからこそ、わざわざ「流されやすい」のこういう場所に作られていると思われる。流されることで役割をお勤めになっているのではないだろうか。その優しさに胸が痛みます。

 

余談ふぁが、同じく広島県にある速谷神社(安芸国二の宮)・多家神社(安芸国総社)も延喜式の名神大社である。せまい範囲に三社も名神大社あるのは、安芸国は海・陸とも、重要な拠点であったことがわかる。古代の瀬戸内海に重要性はもちろん、街道(海道)で1番重要な道は「山陽道」であり、ヤマト政権(朝廷)と大宰府(外交拠点)をつなぐ重要な道であった。

 

ちなみに「日本三大弁才天」は、お隣りの大願寺である。

 
《広島観光ナビ》
 http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=5249

筑前国

 

筥崎宮(はこざきぐう)


「筥崎八幡宮」とも称され、石清水八幡宮(京都府)、宇佐神宮(大分県)と併せて、三大八幡宮といわれる。

 

延長元年(923年)に筑前大分宮(ちくぜんだいぶみや:いわゆる穂波宮)から遷座した。穂波宮は宇佐神宮の元宮でもある。つまり、ここが八幡信仰の源流なのだ。


由来は、筑前大分宮(穂波宮)より遷座した、神功皇后が「三韓征伐」から帰還後、応神天皇を産み、胎盤を筥(はこ)に収めて埋めた故事による。

 

蒙古来襲、つまり元寇のおり、台風で撃退した神様として有名であるが、そういうたまたまではない、ご利益は、主に必勝祈願のほか、他にも開運招福事業繁栄商売繁盛安産祈願延命長寿などが効く。この神社に行くときは、神風よろしく、たまたまなのか、大企業の集団参拝をよく見る。

 

《御祭神》
・応神天皇(オウジンテンノウ)
・神功皇后(ジングウコウゴウ)
・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト/初代・神武天皇の母)


《所在地》
・福岡県福岡市東区箱崎1-22-1


《データ》
・延喜式式内社(名神大社)。
・筑前国一の宮
・旧官幣大社
・別表神社。

 

《備 考》
プロ野球で、地元福岡のソフトバンク・ホークスが、毎年優勝祈願の絵馬を奉納している。もしかしたら「北で暴れている某国家」の「敵国降伏」もすでに総理が祈念済みかも知れない。

 

上空を、福岡空港の旅客機が頻繁に発着する。まさに邪馬台国のころから、海外への玄関口というにふさわしい場所である。


《ホームページ》
http://www.hakozakigu.or.jp/

 

宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃへつぐう)

 

宗像大社は、島である沖津宮中津宮と宗像市にある辺津宮の三社の総称である。元々女人禁制であり、めでたくも世界遺産に登録されたため、沖津宮は神職以外男性も入れなくなった。

 

この神社は、系列でもご祭神の並びが微妙に違う。辺津宮の御祭神の第一宮第二宮第三宮の順番だと、市杵島姫命田心姫命湍津姫命である。

 

陸から島への並びでは、辺津宮・中津宮・沖津宮はそれぞれ、市杵島姫神湍津姫神田心姫神の順である。厳島神社は辺津宮の御祭神と同じ順。なんらかの法則があるのかも知れないが不明である。

 

この宗像大社のご祭神の三女神は、宇佐神宮の比売大神が元であろう。この宗像三女神を祀ることになった宗像氏は、八幡信仰の侵入とともに、宇佐から離れることになり、宗像に行ったのではないかと思う。

 

沖ノ島のある海が、交通の要所になるのは、国内の海上交通が発展してからだ。外国とのやり取りは「九州(福岡)にあった政権」を通すはず。航路から逸れる沖ノ島には用がなければ行かないだろう。

 

外遊航路からはやや離れており、壱岐ではなく沖ノ島に寄港するには理由が必要であろう。白村江の敗戦で航路が変わるまで、いやその後も「公式な」中国や朝鮮半島の船が最初にこちらを通ることはあまりないとお思われる。

 

もしかしたら、島根の隠岐と同じく、当時の「私的貿易」の拠点になっていたのかも知れない。なんせあれだけの宝物が本土の政府に届けられず、沖ノ島に届けられるのは不思議である。まさに私的貿易港としか考えにくい。

 

いくら凄い神様でも、あれだけの宝物を宗像氏に渡す理由はないだろう。親神がいる伊勢神宮でもこれだけのものはない。同じく宝物が多い愛媛の大山祇神社は国内の武将たちからの奉納であり、いくら有力な神社でもちょっと不自然である。

 

島には、縄文時代から弥生時代の石器や土器などの遺物が発見されている。宗像氏が来る以前から、来て以後も祭祀が行われていた聖地であるには違いないが、降臨するならば、高いとこりにある山に降りるに違いない。

 

ちなみに沖ノ島には、「島に立ち入り見聞きした事を口外してはならない」というルールがあり、島全体を御神体としている(宝の島だからね)。

 

 これは考えようによっては、女人禁制は、やはり女性が宝物の存在を知ると外部に広まりやすいからとも取れるし、男が禊するのも裸にして「持ち出し」を調べる口実にも使えると思う(笑)。

 

理由はどうあれ、ほぼ手付かずで宝物が残って居たのは貴重である。やはり宗像の神様の威光は凄いのだな~。

 

《御祭神》

・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 第一宮

・田心姫命(タゴリヒメノミコト)    第二宮

・湍津姫命(タギツヒメノミコト)    第三宮

 

《所在地》

・福岡県宗像市田島2331(辺津宮)

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社)

・旧官幣大社

・別表神社

 

《備 考》

政治や外交はさておき、実際の神社は、境内が清浄であるが普通の神社である(笑)。太陽神の娘神であるから午前中に参拝するほうが良いと思う。また、沖ノ島は知らないが世界遺産になってから、どこか神社自体が元気が無くなったような気がしてならない。

 

こちらのパワースポットは断トツで高宮祭場であろう。本殿から坂やらなんやらを歩いて15分くらいで着く。なぜか「ひゃ~参謀」はここを歩くとトイレに行きたくなるから、済ませて行った方がいいと思う。境内にはトイレはないのだ。

 

高宮祭場は、神様が降臨したと言われている昔の祭祀の跡である。ここはほんのりとご神気が漂っており、1回来るとまた来たくなるような場所である。

 

ここで神気を受けると、停まっていた物や夢がまた動き出す力が頂ける。とにかく「走りながらやりましょう」という人には向かないかもしれない。

 

なんせ「行く道を示す神様」である。いったん立ち止まってこそ、正しい方向を示してくれる神様なのだ。

 

見た目に普通でも家に帰るころにじんわりと神気が効いてくる。スピリチュアルなんとかの方々がいうようなものは大げさ過ぎると思う。古代の神様は、そんなせっかちではない。

 

ご利益は、開運病気平癒健康祈願に力があり、宝が集まることから、財運向上商売繁盛にも力を貸してくれるだろう。

 

おや? ここは交通安全でしょうと言われるかもしれない。まぁ確かに船や航空の安全には強力であるのだが、陸路(車)はそれほどでもない(笑)。なにしろ交通安全はどこの神様だってなかなか難しいのだ。

 

お守りならば、割符守がお勧め。高宮祭場にある小社殿でお金を納めて1組頂き、願いを書いて割る。半分を祭場にあるコーナーにぶら下げ、半分はお守りとして持って帰るのだ。

 

また、社務所では、枯れたり倒れそうになったご神木を伐採し、お守りとした杜守(もりまもり)があり人気もある。

 

 ちなみに交通安全は、願い事でも最も高度なもの(多くの人間の動きを考えなければいけないから)。だからお守りに迷った時は交通安全守にすれば間違いない。これが祈念してあるお守りならば、他事にも有効なのだ。

 

本来「○○守」と書いてあっても、神様は持っている人を守っているだけ。だから、(人がいない時にでも)口に出して願いを言わないと神様になかなか伝わらない。昔は、神社や寺の外で、大声で願いと名前を告げたそうだが、今はそんなことはできんからねぇ(笑)。

 

《ホームページ》

 http://www.munakata-taisha.or.jp/html/gosaijin-yuisyo.html

 

筑後国

 

高良大社(こうらたいしゃ)


仁徳天皇の御世に鎮座、または履中天皇元年に創建と伝えられる。延喜式の名神大社にして、筑後国一の宮とされる。ご祭神は、高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)・八幡大神(ハチマンオオカミ)・住吉大神(スミヨシオオカミ)の三柱である。八幡大神と住吉大神は定番としても、主祭神・高良玉垂命ご祭神にまつわる不思議な逸話がある。

 

この高良山(こうらやま)は以前、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれ、高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座していた。そこに高良玉垂命が一夜の宿に高牟礼山を借りたいといい、貸したところ、高良玉垂命は結界を張ってそのまま居座ったという話だ。そして、現在は、元の氏神・高木神は麓の高樹神社に鎮座している。


まぁそんな馬鹿げた話は聞いたことがない。そもそも高木神は神々様の中でも強力な神様であるはず。それに「よそから侵略して立て籠った」ような神様を地元で信仰するとも思えない。

 

もしかすると、逆に本来「ここにいるべきご祭神」であったからこそ、ヤマト王権(高木神は皇祖神の1人である)の神の中の神、高木神から領地(?)を奪う話になり、ある種の鎮魂しているのではないかと思ってしまう。

 

それにこの高良玉垂命は「倭の五王」の1人かも知れない。この五王は学者はヤマト王権(畿内王権)には、まだまつろわぬ豪族が多かったため、中国皇帝の威光で支配力を安定させたい意図があったと推測している大王とされている。でも、おそらく、五王は中国(宋)の冊封体制下に入っていた「九州代表」の倭王でしかなく、当時の倭王は、邪馬台国があったころの「九州王権」(統一前の日本代表)とは違い、単なる「九州代表」でしかなかったと思う。

 

だから「畿内王権」(西日本中心)に対抗するため、自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んだのではないかと素人的には思うのである。最終的に、ヤマト王権軍が筑紫君磐井(筑紫国造)を、528年に物部麁鹿火が鎮圧して終わる。ここに長年に渡る「九州王権」VS.「畿内王権」の争いが終結する。ちなみにこの物部麁鹿火の母・須羽直(すわのあたい)が、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)や信濃国諏訪郡領主を司る家柄であった。

 

さて、この当時の継体天皇は58歳で即位したが、19年間も大和入りできずに河内(大阪)に都を置いた。これは彼が応神系ではなく仲哀系であったからかではないかと思う。大和にはまだ応神派が多数だったので入れなかったのだろう。神功皇后武内宿禰(タケノウチノスクネ)は、本来仲哀天皇の正統な後継者と思われ、応神が生まれる前から大和に存在した麛坂王忍熊王を殺した可能性が高い。

 

滅ぼした応神派が(仲哀派の天皇を)賛成するわけがない。それを再び仲哀系に戻ったからこその「継体」天皇なのではないか。その滅ぶ応神系大王こそ、高良玉垂命であろう。さらに神功皇后を支えた八幡大神住吉大神とともに祀られている。これなら結界を張ったというよりも封印されたのほうが近いかも知れない。

 

「玉」というのは、周りの人間の自由にできる王様を指す隠語だろう。だから明治以降の天皇の体を玉体、椅子を玉座などという。中国の天智玉(てんじぎょく)の話を出すまでもなく、玉(宝石)にうつつを抜かす王様は滅ぼされても仕方がないと考えている。

 

比喩としても「玉垂れ」(すだれのように宝石をぶら下げる王様)はそういうイメージではないだろうか。まぁ勝った側の論理であるに違いない。ちなみに1時間くらいの往復で高良山山頂にある奥の院(奥宮)にも参拝できるらしいが、けっこう崖際で危なさそうなのでご注意ください。


《御祭神》
・高良玉垂命(コウラタマタレノミコト:正殿)
・八幡大神(ハチマンオオカミ:左殿)
・住吉大神(スミヨシオオカミ:右殿)


《所在地》
・福岡県久留米市御井町1番地
《データ》
・延喜式式内社(名神大社)
・筑後国一宮
・旧社格、国幣大社
・別表神社


《備 考》
神社の位置は、筑紫平野を望む絶景の場所にある。まさに「王権の地」にふさわしい。現代における神社のご利益としては「延命長寿」「厄除け」「勝運」「運気の浄化」などである。

 

まぁ天下を取り、勝つ続けるのに苦労した王様であり、失うもののつらさも理解して頂ける王様でもある。まさに厄除けの守護神にふさわしい略歴と「その気にさせる」(天下取りなどに)よい神社で有るし、疲れたビジネスマンや自分の目指す世界でトップに立ちたい者を応援してくれる頼れる神様である。

 

なんせ福岡でも「奥座敷」に位置するためなかなか行きにくいが、そこをなんとか頑張っていけば、神様も喜んで迎えてくれるに違いない。ちなみに結界が張ってあっても自由に神社に入れるからご安心くだされw。

 

《ホームページ》
 http://www.kourataisya.or.jp/

豊前国

 

宇佐神宮(うさじんぐう)

 

宇佐八幡宮ともいう。名神大社(3社)にして、豊前国一の宮、勅祭社、旧社格官幣大社、現・神社本庁の別表神社という申し分のない格式を持った神社で有るが、なぜこの格式を持っているのかというと全く分からない。

 

まぁかの井沢氏がいうほど「おかしい」とは思わないのだが、通常、左から三之御殿一之御殿二之御殿とエライ順に社殿や御神体を並べる神社の作法が、一之御殿二之御殿三之御殿と並んでいるのは、やはりおかしい(笑)。二礼四拍手一礼はそれほどでもない。まぁ「倍叩いてエラク見せたい」(かどうかはわからないが)ぐらいではないかと素人は思う。そのくらいで神様が封じられるなら、そもそも頼みがいがないと思う。

 

そもそも、真ん中の比売大神(宗像三女神)が元々は主祭神であったとは思う。なんせ応神天皇は歴史上、少なくとも「記紀」では、ほぼ何も成し遂げてはいない方である。むしろ、八幡大菩薩としてのお話はスピンアウト作品としては満ちあふれてはいる。

 

もしや非業の死を遂げられたかのかも知れない。なんせ7歳くらいの童子の御姿で顕現なされるというのだ。通常、ご祭神の1番活躍していた年齢やその土地にまつわる晩年などの御姿で顕現することが多いと思う。じゃあ・・・7歳って?

 

この件は、岡山の吉備津彦神社や敦賀の気比神宮などと絡ませて考えないといけないので、ここでは深く突っ込まない。神功皇后関連の神社は、良くも悪くも興味深い所が多いからね、しかもいい神社が多い。

 

そもそも、八幡宮系の神社で主祭神が「応神天皇(あるいは誉田別尊)ではなく、「八幡大神」としているのはここぐらいだろう。本来、八幡大神とは、名前を語れない、言いたくない、不明などの神様の総称であり、単体の神様ではないと考える。

 

実際こちらから勧請したとされる、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)には、「当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀りしています。御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様と申し上げます。」とある。

 

このように《合体》してお1人の神格になっており、一人称で託宣もされている。だから複数の神格ではないのだ(春日明神なども同じ)。さらに宇佐神宮の「八幡大神」には、比売大神神功皇后も入っていないし、お1人でもないことがわかる。お1人なら、誉田別尊応神天皇)で良いからだ。

 

勝手に想像すると、素戔嗚尊(スサノオノミコト)や鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)が候補である。福岡の筥崎宮には、奥方の玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)もいる。ここは、鸕鶿草葺不合尊を中心とした「何か」の政治体制か信仰形態があったと思われる。それを消すのがこれらに八幡大神や神功皇后などの役割なのではないかと思う。

 

実際、託宣だなんだという割に大事にされている神社とは思えない。古代は御許山山頂にある奥宮(3つの巨石)を祀る大元神社が中心で、比売大神などの信仰が随時合体して行ったのかもしれない。いずれにせよ、記紀神話には本来関係のない系譜の神様であろう(記紀の神功皇后の項はなくても通じると思う)。

 

また、全国の八幡宮の総本社とされるが、実際は京都の石清水八幡宮からの勧請がメインであろう。源氏の棟梁として著名である源義家(みなもとのよしいえ:八幡太郎義家とも)が元服し、源氏の氏神の武神として信仰した。後に関東を経て東北征討の際、武家の間に広めたことが大きい。武将で宇佐神宮を崇敬している武将はあまり聞かない(いてもおかしくはないが)。

 

本来、勧請するならこちらのはず。惜しむらくは、源平の争乱期に、宇佐神宮大宮司の宇佐公通は、平清盛の娘を妻にしていのが痛かった。しかも、敗走する平家一門は宇佐神宮に安徳天皇と共に滞在していたが、近隣の武将の叛逆で庇護しきれず「武運のない神社」となってしまった。その後のゴタゴタで結局、朝廷により石清水八幡宮下の扱いとなってしまった。だから清和源氏を名乗る武将の足利氏(○)・徳川氏(×)・今川氏(○)・武田氏(○)など・・・(1家なんか混じってますね)・・・から石清水八幡宮が崇敬され、武神・弓矢の神として信仰されていくことになるのだ。

 

余談だが、かの、円谷プロの《ウルトラマン》で科学特捜隊のイデ隊員がビートル機から、バルタン星人を撃つときに「弓矢八幡(ゆみやはちまん)!」と唱えてたのを見て時代を感じた次第で有る。はぁ。

 

《御祭神》

・八幡大神 (ハチマンオオカミ:一之御殿)

 ※誉田別尊(応神天皇)

・比売大神 (ヒメノオオカミ:二之御殿)

 ※宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)

・神功皇后 (ジングウコウゴウ:三之御殿)

 ※別名・息長足姫命。

 

《所在地》

・大分県宇佐市南宇佐2859

 

《データ》

・延喜式式内社(名神大社3社)

・豊前国一の宮

・旧官幣大社

・勅祭社

・別表神社

 

《備 考》

神社史を語る上では避けられない神社であり、743年の東大寺造営の託宣や、769年の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、大神氏や宇佐氏が大宮司をやっていたからなおさら政治的であった。しかし、一連の託宣などは、藤原氏など、中央貴族との「出来レース」であったろうし、特に宗教的に語るものではないと思う。

 

近年、この神社と神社本庁をはじめ、ずーっとゴタゴタしているようだ。もちろん、これらはどちらが悪いか云々は外部にはなかなかわからない(富岡八幡宮の凶事の原因をみると神社本庁も少し・・・)。

 

そういう状態であったら、神社の「気」は安定しないだろう。いわゆるパワースポットとしては有名であるが、ご神気自体はそれほど強くは感じない。確かに「良い気」がこの境内にまわってくるようになっているし、神様はそんなゴタゴタとは関係ないから、個人が祈るくらいの「開運招福」くらいなら、楽々助力して頂けるだろう。

 

ただ、諏訪大社上社前宮と同じく、戦乱などで運気が上がる「装置としての神社」が破壊されてしまったため、壊れる以前の「ご神気」はいかばかりであったろうと思うと、残念でため息が出る。それくらい素晴らしいものであったに違いないのだ。とは言え、太古の神々様のお力は凄い。徐々に回復しているはず。復活を末永くお待ちしたいと思う。頼んでばかろいではなく、われわれの気持ちで熊本の阿蘇神社と同様、復活をお願いしてみましょう。

 

《ホームページ》

 http://www.usajinguu.com/